caguirofie

哲学いろいろ

#58

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§12 対話交通の思想 c

§12−2

(24)前節の図解に もう少しくわしい内容を取り入れることができる。

個人の生活態度における
A.出発点:自己(行為能力の主体)=関係存在・・・・・・・同感人(=社会人)
B.踏み出し地点:自己の能力行為=交通・・・・・・・・・・・・同感動態
     ・感覚(感性・心理活動)=接触・・・・・・・・・・・・・同感動態の場の成立
             (自己がその時そこにいるということ。参加ということ)
     ・認識/判断(理性・精神活動)=対話・・・・・・・・・同感動態の成立
             (問題認識・協議・提案裁決・同意)
C.踏み出し:事実行為(能力の投与=疎外=表現)
             =実践(生活・社会活動)・・・・・・・・・社会人(=同感人)

          A.出発点
     |              |
  B.踏み出し地点         C.踏み出し


   同感動態・そのもの(同意)→   事実行為
                            ↓
       ・その場(接触・参加)← 行為事実



(註) 生活の基礎は 再生産(経済活動)である。これにもとづき すでに共同自治(政治)としても 同感動態の過程を 採り入れている。すなわち その結果=行為事実が あらためて踏み出しの地点で 受け止められていっている。

(25) 心理起動力がすでに あつかましくも出発点推進力を代理してはたらく場合――これが いまの論点である。これは おもに 接触の場が・そしてそこにおける心理的な活動関係が 他の諸活動に対して 先行し優勢となる場合である。わざと先行させる場合である。同感人から もっぱらの同感動態人への転化。その意味での《和を以って貴しと為す》というかたちである。微妙な問題でもある。しかも 基本的には 原則を逸脱しているしろものである。その場をとりつくろうとして 同意(=同感動態)すればよいというものではないということである。
(26)心理は 心理のままでその心理活動を もっぱらの自己の実践の力として発揮しない。たとえ感情的になったとしても その感情的になることと この感情を自己の出発点(つまり 自己そのもの)とすることとは 別である。そうするのは 起動力である。つまり しかしながら この起動力を発揮するのは じつは 出発点推進力なのである。心理じたいに罪はない。心理は――たとえばその かっとなった状態がもし 精神錯乱にまで行くなら―― 責任の主体になれない。いや 精神錯乱に行かなくとも 心理は 主体(わたし)ではない。
(27)もう少し つけ加えよう。一つの一般論として言うのだが 感情的になった人に対しては それをかならずしも 抑えるように・冷ますように はたらきかけるのではなく 感情的という状態じたいをわかってもらうためには 何に対してそうなっているかを まづ たずねるべきである。たとえこれによって ますます感情的となったとしても その感性が 愛に発するのなら(関係存在としては 特にはその意志に発するのなら) 何を憎んでいるか これを わかってもらうのが いちばんである。つまりこれは 何を出発点として愛し その愛ゆえに 別の何を憎むかのことだから そこから かれは 異感状態のまちがった出発点に責任があると考えるであろうし これを 指摘するようになるはづである。
そしてわれわれも おおいに 迷惑のかかってくるような心理起動力の実行に対しては これを憎む。そしてもし 異感有力たちのあいだの均衡をめざすことでは満足しないとするなら このような憎むことの愛が(つまり 関係存在および存在関係が) ほとんど唯一の対話なのである。和を以って貴しと為すのが 心理起動力どうしのバランスの問題でないとするなら 基本出発点が普遍的と見る限りで この実践は われわれの手に負える部分である。
(28)心理起動力だけで もう分かったというふうな場合――ここに心理起動力の生じる起点があるが―― つまりこれは 接触の場だけでもうすべて納得したというふうな場合である。あの人が来てくれたから やすらかなになったという。しかしながら こうであっても こんどは それが 理性・精神活動によってそれでよいのだと 一度は判断した上での出来事になった場合が いまの問題である。心理の相互作用で=つまりその場のとりつくろいで 同感実践しているというときには これをそのように見るのは じつに われわれの普遍的な出発点推進力なのである。われわれは これを 間違いだと見る。

  • だから 一般に出発点が二重になっていると 今の論点にかんしては 言えるが 時によっては 結果として 出発点は二重分裂になっていない場合もありうる。おそらく心理の起動力は 無効だと考えているのだが 結果として見て あらゆる場合に有効でないのだとは 言わないほうがよいかも知れない。ただしこの安易に無効だと言わないほうがよい場合というのは 条件がある。事後的な承認を経るというかたちを とらなければならないはづである。

(29)いや心理起動力は 自己との対話(理性・精神活動)を一度も通していないのではないかという場合もある。この場合には――だからそれは ほめたことではないが―― それでも 接触・参加の場での心理活動が じぶんで独立したような状態になってしまっているのである。その場がとり繕われたのだから もうそれでよい 分かった分かったと どこか或る一点で人は 理性判断をしたことになっているというふうである。まあ それでよいですかと 念を押すくらいが われわれの責務ということになる。もっとも くわしい内容説明をしてあげることが 内政干渉になるとは まったく言えないだろう。広義の交通のうち 対話を省略して 接触・参加だけで 同感動態(同意)が成立したとする場合 それではよくないと判断したときには 推進力出発点が巻き返す。
(30)心理起動力が 有効な推進力によって起こるにもかかわらず この推進力に取って代わってのように 今ひとつ別の出発点と見なされてしまうのは――前項の繰り返しだが―― 接触・参加としての同感動態の《場》の成立だけによって 対話・同意としての同感動態じたいも すでに成立したと見なす場合である。と同時に この同感動態を省略する場合である。省略の仕方によっては 暴力となる。つまり 無効となる。
(31)心理起動力の有力に発揮される場合というのは とうぜん実践の生活が 経済活動に基礎をもっていて 政治活動をこの基礎領域のための同感動態領域としているのだから 広く 社会的な形態と 不可分である。決して 個人内閉的なものではない。――精神分析は それじたいが ぐあいわるいのではなく 精神(じつは ほとんど心理)に閉じ籠もりがちであるとき 何を言っているのか わからなくなる。わかっても 生活態度全般のこととして もう一度 翻訳が必要である。(例外に触れなければならないその一例は 小此木啓吾の《エロス的人間論―フロイトを超えるもの (1970年) (講談社現代新書)》をあげた。§6−2)
(32)自己の能力の投与たる実践は その事実行為の結果――すなわち 行為事実――を持つことになるから そしてこれが ふたたび同感動態で感知され認識・判断されていくのだから このとき もう対話をはぶいて 接触の場だけで進むというのは 端的に 経済成果や政治成果が 仮りのそういうかたちでの出発点と見なされていく場合である。さらには踏み出し地点と見なされていく場合である。つまり 価値判断を抜きにしてこれを捉える場合にも そのような心理起動力は 《経済人》あるいは《政治的人間》のものなのである。すなわち 全体観たる《社会人=同感人〔=そしてそこに附属する経済人など〕》が この《もっぱらの経済的人間あるいは政治人》と呼びうるような形態で すまされようとするときである。
(33)同感人=社会人の生活態度は 経済基礎の実践の見地から見て ふつうの資本志向=自然思考(あるいは 社会的なプラス志向)を持っていると考えた。ふつうの生活の向上という態度である。これが 心理起動力によって推し進められるとき もっぱらの経済人であることによるというものであるから 資本志向主義あるいは資本主義志向となって現われる。勤勉 あまりにも勤勉つまりガリ勉と言うべき一つの生活態度だと考えたし この対話交通の思想の段では それが どこかで 対話の部分を省略してしまうところがあるのではないかと考えたわけである。資本主義の総体的な運動には 人間個人が手に負えないところがあるが 同感動態のこの領域では 手に負える範囲もありそうである。(これは 個人論が いま建て前だから 制約があってもよいものとして こう考え提言するわけである)。
(34)資本主義志向は しかしながら異感状態もしくはあいまいな同感状態とよべるものであり しかもこれは そのようにして 大きくは はじめの同感人なる生活態度の基本線の上を 走っている。上をというのは やはり 出発点を二重にしたその二階の路線をであるかも知れない。だが 少なくともいわゆる民主制となった社会では 資本主義志向のもっぱらの経済人という異感状態も 同感人の基本線から出たものであり この基本線が一度は実現したのだと考えられる。一度は 自分で 自覚したのだと考えられる。
(35)このもっぱらの経済人による心理起動力が社会的に有力となった情況 すなわち 資本主義社会で それにのみ沿って政治する政治的人間がもしあるとするなら 抽象的に分析する限りで やはり同じくであるだろう。その政治が あいまいな同感動態となっているところがあるという意味である。
(36)このときには 接触交通だけではなく 対話交通が 要請される。それが ほとんど今では実現しているとしても さらにどこまでも民主的で自由な話し合いが つづけられるべきである。こうだとしたら 同感動態の十分条件は ここでも 処方箋の提言であることになる。
(37)心理起動力のさらに別種の形態が 見出されるときがある。それは むしろ 上に言った経済人や政治的人間の心理起動力を 劣等視する場合である。接触交通(参加)を 対話交通よりも一段 劣ったものと見なすところがある。そのような結局は もう一つの心理的な起動形態であるとも言わなければならない。同感動態の対話を 省略すべきではないということだけを 省略する側の(つまり 省略しつつスピード違反する経済人や政治家たちの)やはり心理起動力にうったえていこうとするかたちである。
(38)この別種の心理起動力は 認識と判断との理性・精神活動を じゅうぶんおこなっているのであり 理論をつくり そこでは 対話も重んじられて そのあとでは参加・接触も省みられる。のであるが それにもかかわらず いわゆる理論信仰として進む場合である。理論が――それが 相当の客観真実を保持していて――すでに〔想像力の世界では〕接触交通のことをも含んでいるのだと見なし はじめにこれら全体が 念観されてしまう。
(つづく→2008-02-14 - caguirofie080214)