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哲学いろいろ

#59

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§12 対話交通の思想 d

§12−2(つづき)

(38)この別種の心理起動力派は 認識と判断との理性・精神活動を じゅうぶんおこなっているのであり 理論をつくり そこでは 対話も重んじられて そのあとでは参加・接触も省みられる。のであるが それにもかかわらず いわゆる理論信仰として進む場合である。
理論が――それが 相当の客観真実を保持していて――すでに〔想像力の世界では〕接触交通のことをも含んでいるのだと見なし はじめにこれら全体が 念観されてしまう。このような観念の発進も そうだとしたら心理的な起動力なのである。理論人とよびうるような・ 《同感人=社会人》の一部分形態であり これには結局 道化などの同感動態人の理論も 入るものと思われる。
(39)理論人(いわゆる理論信仰)は もっぱらの経済人や政治的人間による心理起動力の有力に対抗する傾きがある。主流の心理起動派に対抗して たしかに 対話を第一義に建ててゆく場合である。もしくはつまり その一個人内部における〔想像理での〕同感動態の成立過程(つまり理論である)を 第一義に建ててゆく場合である。これは いまでは 古いものとなったかも知れない。考え方としてこれが 対抗的な一つの心理起動力主義にすすむ場合がありうるのではないかというものである。
(40)文化人類学の同感動態人は この理論人に対して さらに 接触交通の場の要因を 重く見ようという認識に達しているし 発している。接触は 行為事実との接触を含む。つまり そういった既成事実を知ることという場合を含む。つまり研究行為のことである。この行為事実との および それを介した人間どうしとの 人間の接触交通 これにかんする同感動態の理論は 全体的な生活態度の理論をめざしている。しかも依然として その理論のゆえに またその理論の実践のゆえにこそ われわれはやっと はじめの同感人出発点に 立つとするものである。そう しがちである。もしくは 理論による世界の見方の確立を俟ってはじめて 出発点に立つという見通しになっている。これは 順序が逆なのである。
(41)前二項いづれの場合も いづれ栄光のうちに人びとはあかつきを見るであろうと言っている。しかもこの目的の実現されたその暁を見るであろうと言っているのは 今 なのであるから この今は 同感人出発点だと言おうとしている。そのように回りくどい形で言おうとしている。
われわれは この種の思想は 同感人出発点が 心理起動力の想像世界で感知されることだと考える。それが悪いと言わなくとも その感知された後 なお その感知された出発点に実際に立つことは 生活態度の確立として 残されていると言おうと思う。むしろその理論〔の見させる世界〕がすばらしいものであるなら すばらしければ素晴らしいほど そのこと自体として 一つの《縮小構造》の中にあると思う。現実のガリ勉(経済人や政治家)も その場の取り繕いに奔走する心理起動派であるが あたかもこれらに対抗する学問同意にもとづこうとするガリ勉も 心理起動派だと言わなければなるまい。
(42)きわめての抽象論で 中傷になりかねないかも分からないが こういった点 考えておくことができると思う。なおも つづけますが いづれの場合も その心理起動力〔のあり方〕をあいまいにせずにいるなら まちがいはない。つまり言いかえると それに訴えがちであったところの起動力(想像力でもよい)を その場のための仮りの手段であったと認め 結局は もともとこの心理起動力には訴えるものではないのだと明言していくなら そのような一つの認識過程として ありえないのではない。まちがいでもない。縮小構造に一たんなったとしても それは もともと対話に必要な説明の一手段であって とうぜん これを超えるものだと 明言していくなら だいじょうぶであるかも知れない。
もちろん そのままで 決して縮小構造なんかではないという反論もあるかも知れない。だが もし一言で言えるとすると わたしたちは 想像や思考をとおして 同感動態をはこんでいくのだが これは 想像の世界で 同感し同意するのではないのである。心で同意し――という用語を使うけれども―― 全体の生活態度に 直結する。この直結の仕方は 実際には(とくに踏み出し実践では) 理論を超えている。想像の世界〔のそのようないわば祭壇の世界〕を おっぽり出したかたちにもなっている。なっていい。これこれこういう理論があるからというので 実践するのでは必ずしもない。提出された理論というのは じつはすでに 知っていたことがらなのである。(そのとき初めて知ったという内容が 相手からおしえられて分かったという場合でも その同意というものは もともと 自分の心の中にあったものだと考えられる)。よって心で同意するのだ。思考・想像力を介してはいるが 想像の世界で 同感するのではない。少なくとも想像において初めて同感人であるのではない。想像において初めて同感人になるのだとすると それは じつは 勘違いしている。それは 同感人ではなく もっぱらの同感動態人なのである。その場の暫定的・一時的な状態を 第一義に考えている場合である。仲介の第三者に 想像力のつばさによって 成ってしまっているからだと思う。そしてこれが いま一つ別の心理的な起動形態だと思う。
(43)心理起動力の一般にかんして もう一度まとめると まづ
( a )もっぱらの経済人や政治的人間の心理起動力があると考えられる。これの有力に対しては 単純に 同感動態の過程を――つまりその対話の実行を―― 要請していく。じっさい いまのように 抽象的な議論としても 対話をつづけていく。
( b )他方 この対話をもって つまり特には個人の能力行為における理論作業をもって たしかに 優勢なかつ有力な心理起動力の異感構造に 対抗していく場合がある。これは なおも別種の心理起動力によって そういう行き方を採る場合である。(もしくは これにも絶望した場合もある)。この場合には 理論の充実(つまり 想像力の発揮である)によって すでに一個人たる自己のうちで 対話交通がそして接触交通さえが 完成し完結したという形態をとりがちである。完成に向かうであろうと見る点で 完結したと見なしがちである。もっぱらの同感動態人となりがちである。理論信仰ともいう。だから あとは理論どおりに運ぶしかないというようになる。
(44)この種( b )の心理起動力に対しては 
(い)一つには 形而上学に陥りがちになってもまづ 出発点の基本理論を 〔一般的なタカマノハラ理論形態といった見方のなかに〕説明してやるか あるいは その理論家の人たちに かれら自身の基本出発点の説明を乞うかするしかない。
(ろ)もう一つには 逆に 実践(行為および事実)の問題をたづねてみるかしなければならない。提言を明らかにせよと迫る。
(い)および(ろ)とも これは 故意に 同感動態の領域をはずして 対話をすすめてみようという心である。(い)では 抽象論になっても (ろ)ではたとい平俗的になって 実際どういう事実行為をとるのかという質問に帰着してしまっても いづれの場合も はぐらかすことも 一つの手だと考える。
その主張じたいは 理論内容として われわれも受け止めて認めているのだから はぐらかすのであって 話しそのものをズラしたり無視したりするのではない。想像世界の閉じた構造を超えようとする。そのために 話しの持って行き方として 問題をはぐらかしたりしてみる。《もっぱらの第三者による同感動態論》に対して その領域をはぐらかすことは必要だと考える。そうでないと なかなか対話が始まらないのではないか。つまり これは 想像力じたいの問題としては おおむね かれらの理論を 真実であるとわれわれは考え それに教えられもするということを 前提としている。
(45)前々項の( a )の 実際人あるいは実用論者ともいうべき心理起動力(つまり政治家・経済人)の場合には その対話理論が不備でも 何か一つの縮小構造に はまりこんでいるものとも必ずしも考えられない。つまり一つの想像力の世界に《実際人》がはめ込まれているとは 必ずしも考えられない。それはむしろ――ただし一般には いけにえの文化構造もあるだろうとは言ってきたのだけれど むしろ―― 指導者と被指導者との二階建ての構造になっているのではないか。この構造は――むろん言うとすれば だから 一つの縮小構造なのだが―― 理論の世界よりも事実行為の世界にもとづこうとしており この世界は 経済行為事実の動きとともに よく動きうるといったものである。
これに対して前項の( b )の心理起動力の場合では一般に 議論の作成→同感動態の構築つまり対話→理論の実証と実現→そうして始めて 初めの同感人出発点にあらゆる人びとが立つといった構想を持っている。
(46)それにしても わたしたちが 前項のこの最後の批判点(つまり 実践への構想)にかんして 矢印の順序がおおむね逆ではないかと言おうとするとき(そしてまた それらすべての項目について 同感実践の事実行為なる項目を つねに同時に つけ加えなければならないと言おうとするとき) 文化人類学とか経済人類学とかの理論ないし思想は 順序が逆だというそのわれわれの主張に 同意するかも知れない。つまり とうぜんそうであり 言い方はどうであれ 《推進力は 同感人であり ここからの出発が有効である》という基本の考え方に すでに もちろん同意していると 反論してくるかも知れない。
この反論は だが それだけではなくさらに それゆえにこそ――つまり事実行為の生活実践が 肝心であることは ほんとうであるゆえにこそ―― しかも その事実行為の方向を確かなものとするためには 世界の見方を人びとが形作りあっていくことが必要である。さすれば 同感動態の交通過程こそが――すでに当事者理論として―― ひじょうに重要であると言って 自己の考え方を 回りまわって 補強してくるかも知れない。(研究内容が真実であると わたしたちも言ったのだから)。つまり 自分たちのおこなっている世界観の提示こそが 実践活動でありうると つよく反論してくるかも知れない。
だが ここまで来ればわれわれは しめたものである。ひとしく対話の場に立ったことになるからだ。わたしたちのここでの議論は この収穫をもって満足しうる。
(つづく→2008-02-15 - caguirofie080215)