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哲学いろいろ

#57

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§12 対話交通の思想 b

§12−1(つづき)

(13)仲介者をもっぱらの仕事している人とて 自由ではないであろう。そしてそれは みづからが当事者であることを拒むようなところもあるのだから みづから望んで 自由でなくなろうとしている。自由の当事者であることから抜け出ようとしている。また 鬼になって言えば そのような仲介者は おせっかいである。
(14)われわれは ただし ほとんど全体にわたって あくまで 個人〔の力の及ぶ範囲〕の観点から いま 議論している。残念ながらというべきか このほうが その限りで 基本であり先行する問題だと考えるからである。というべきか。
(15)アダムスミスが 政府ないし政治家は 国富を増すために 最小限必要の(どこまでが最小限の必要かの論議は別として) 調整役となればよいと言うのが 主張のひとつであった。そのような仲介者たる公民であることが 最終的な目的ではないことをも示していると考えられる。考え方として(つまり 生活態度として) このことは ひとつの現代人の歴史的な出発〔地〕点であったと言えるのではないだろうか。また逆に これによって 一般の生活者市民も その生活態度の上で みづからが公民である役割の部分をも 一人ひとりが引き受ける。これらの役割を もし道化というなら もう単なる表現の問題になる〔から われわれは争わない〕。たとえば王化の徳というのに対して 道化すなわち市民社会の道の志向だというなら それは もっぱらの同感動態人のことではなく 出発点の同感人のことを言っているのだから。
(16)この図解にかんして あとは 思想の実践=生活の推進というとき そこにおいてその基礎は 経済活動である。同感動態は この個人的には労働つまり協働関係であり そして社会総体としては 全体の社会生活を共同自治していくところの対話交通である。これは 政治と呼ばれる。広くそう呼ばれるだけの専門的な活動領域も 築かれていて そこに仲介役が活躍するかも知れない。ただし 市民の代表ないし代理というのなら そのような調整のための役も 出発点=同感人の 属性なのである。《もっぱらの同感動態人》をわざわざ 第一義に主役とする見方は あまりにも一面的であり その一面を突出させていて まちがいである。
(17)まとめる上では 箇条書きにして・そのぶん断定的に言っているけれども すなわちここでは 国家の問題に入ってゆくが このときにも 考え方としては一般に 個人個人の生活態度を基礎として 対話交通がおこなわれていくと言ってよい。経済活動を基礎とするという生活態度全般を基礎として 同感動態を築いていってよいと考えられる。
(18)国家が社会総体の問題として 個人の生活態度〔の力の及ぶ範囲〕を超えると考えねばならないとき つまり それはそうなのだが――さらにつまり 個人個人の労働や生活と社会総体の経済運動とは 別のものとなっていると考えられるのだが―― 同感動態の領域では 個人間の・政府内部での・そして個人と政府との間の そういった対話交通は そこに 個人の生活態度のかかわって はたらく余地について いまは考えているのである。あるいはその余地から進み入ろうとして 考えている。〔(14)の項〕。
この限りで――もしくは その一つの根拠として――考えられることは われわれ個人としては 個人として手に負えないもの(たとえば 質料の自然的な自己運動 そしてそれに譬えられるような社会総体の経済運動) これについては それらじたいに まかせなければならない。もの(質料)が 勝手に 腐ったなら 手に負えない。また その社会総体的な価格の運動について 手に負えないところがある。
同じくこのとき まかせる必要はなく 手に負えるという事柄の場合には それらに対して やはり個人個人が主体的におこなう同感動態(つまり 研究および対話交通である)が かなり大きな部分の役割を担うし 発揮するのだから この領域で いまは 考えている。(それじたいの具体提言は おこなっていない)。
(19)前項の手に負える社会行為の部分というのは 個人がおこなうのであが しかも逆に その観点は すでに個人の次元をあたかも超えているということもある。社会総体の立ち場にすすんでいるであろう。これは いわゆる社会科学に独自の立脚点のことであるが――また それとして わづかながら 個人(市民)のうちの公民の立ち場であるが―― ここから踏み出す場合 個人の〔第一次的な〕出発点は 〔第一次的でなくなるとは言わずとも〕 たしかにあいまいな推進力となる。どこまで 一市民の中の公民という部分での推進力出発点であり 有効であるか分からなくなりうる。あいまいとなりうる。手に負えると考えるのに 何も〔提言を〕せず 見過ごしたといった場合などもありうる。またこのとき個人にとってみればその生活一般は 社会科学ないし社会総体に対して ぎゃくに従属的なものとなる。
アダムスミスは この個人の第二次的な従属的な公民という生活実践を 必要最小限の同感実践たる調整行為に ゆだねたし それだけに限ろうとしたわけである。やや希望的観測のごとくいえば この公民は 社会総体における形態(制度)としての役割やはたらきとして 個人をそれに対して従属的ならしめると同時に 個人存在の出発点としては その同感人の内面に とうぜん〔この公民が〕そなわるとも考えたわけであろう。後者の観点では 個人の生活態度は 個人そのままが現われる些細な領域においても 二次的ではなく従属的でもない。そして犬の遠吠えのようにでも言うと 社会科学主体(つまり 外的な制度・形態としての公民)は 経済学者にしろ政治家にしろ あるいは実際に言ってかれらの提案し実行に移す具体思想を受け入れていく市民個人〔の公民部分〕にしろ そういう個々の人間としては やはり生活態度の全体で はじめの推進力出発点に 立っているという帰結になる。
(20)いまは 上のような一面を強調するというかたちになっているけれども もう一度 哲学の部分にも戻る。当事者理論がもっぱらの第三者(=仲介者)理論に――上のような情況にありながら――転化するということ これは 抽象的な一般論としては 同感人出発点から逸れることである。異感状態に入ることである。(茶化すつもりはないが おそらく遺憾でもある)。もしくは 同感人の観念設定による二重の出発点であることになろう。自己の存在じたいと 自己という観念(自己は自由だという観念)との 二重出発点は その踏み出し〔地点〕が いけにえの文化構造からの心理的な影響を受けたものだとも考えられる。異感人によって同感人が犠牲になったとしたら そして その犠牲が 聖なるものとして供犠の儀礼に取り上げられたなら 《同感‐異感》の二重構造ができる。それに影響される限りで 同感人なる出発点も 二重になる。
この影響(つまり 異感人状態の現出)を重視し――わざわざ重視し―― 先行の問題とするならば 仲介者的の第三者理論も出されてくるわけだ。言いかえると 異感状態を含んだ二重の同感人出発点に立つことは 推進力が 心理的な起動力をも含むことになる。いけにえとのその供養といった心理状態は たとえ同感人の内面へ入ってきていても まだ 社会関係的に(つまり 交通接触をとおして) その異感状態の影響が ただ単に受け止められているというだけのものである。われわれは 心にそういう動き・感情の動きが 起こっているなと見るだけである。それでよい。つまり 異感状態の相手をもし目の前にしているのなら あなたの出発点は ちがうのじゃないかと 対話していく だけである。社会の異感人の要素を容れた構造から あなたは 心理が影響を受けただけですよと伝えてあげる。
異感状態(たとえば したがって 《現実はきびしい》という声)の社会的な影響たる心理 これをも しかしながら 出発点とするのは いただけない。基本の推進力を 一時的な起動力に代えることである。もしくは 二重の分裂した出発点となることである。
(21)この心理起動力とは何か。はじめの一論点――同感人を立てること――から指摘しうるもう一つの論点である。
(22)国家という社会総体までを含めての一定の社会集団が そのとき立っているところの踏み出し地点――このような社会集団じたいには それに固有の基本出発点というものはない―― これを すでに〔個人=個体における〕推進力出発点だと見なしていく場合が 心理起動力の一例である。集団のほうが えらいと見る錯覚である。
(23)心理起動力は 有効ではない。(心理じたいは 有効でなくても 無効そのものでもない。この心理は 感性とかあるいは肉体と言い変えてもよいだけのものである)。起動力は 既成事実化するから そのかたちでの実効性をもって 社会的にも 有力となりうる。なぜそうであってこの心理起動力を 有効な推進力出発点と区別するかというと 個人が集団の前に従属的に・あるいは無力になっている事態があるとするなら それがとりあえずそうだと捉えるのは このことが 有効な個人出発点であるからである。そうなのであって そこにその上 心理起動力を 実効性をもった主流の有力に対する対抗有力として はたらかせる必要はないからである。手に負えないものに対してまで 個人推進力が支配しうると考える必要はないからである。
われわれは 世の中の異感状態〔の心理起動力〕に うちひしがれ 普遍出発点に還ることをうながされるとき その心理起動力なるもう一つの擬似出発点を指摘し その無効をうったえる。不義を打つだけではいけないとしたら なんじ自身を知りなさいと言って 有効な出発点を提示する。そうして 手に負える部分で 対話交通をとおして 集団に対しても 同感実践をすすめていく。また このとき ほんとうには 第三者の仲介理論は 要らない。一般論は 《民主的で自由な対話》という基本原則までである。これは 当事者理論によるのがよろしい。おまえは 血も涙もなく お互いに弱い者どうしが 助け合っていかないのか。だが――いま言っていることは―― 第三者の仲介理論が 〔その必要条件知識の部分を問わず また経済政策などの十分条件提言の部分をも ここで問わないとしたなら〕 それは もっぱらこの社会構造のなかで心理起動力〔のいくつかの有力〕のあいだの均衡や調和をめざすものだと考えられるからである。均衡論は Bの同感動態だけを分立させてしまうというものである。暫定措置ではある。つねに暫定措置を採ろうとする向きがあるわけだ。
これは鬼になって言うのだと但し書きしなければならないとしても 十分おおきな――思想にとっての――問題点だと考えるからである。もちろん 助け合うのがよいと考える。
(つづく→2008-02-13 - caguirofie080213)