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哲学いろいろ

#56

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§12 対話交通の思想 a

§12−1

これまでの議論から 次の図解を得る。

生活態度における
A. 出発点(=推進力)     : 同感人
                 (互いに同意を形づくり得る関係存在であること)
B. 〔推進の〕踏み出し地点   : 同感動態
                 (同意成立へ向けての対話交通)
C. 踏み出し(=出発進行=推進): 同感された思想の実践
                 (同意にもとづく生活の推進)

(1)第一部で 《A. 出発点》を取り上げ 第二部のこれまでで《B.踏み出しの地点》にかんして議論してきた。《C.踏み出し実践》については 保留しており いくらかは AとBの論議の中で 例示して扱った。Cが そのよう〔に保留〕であり Aの同感人出発点は なんとも早 形而上学の抽象論だと言わねばならないとすると ここでは Bの同感動態の一般論すなわち 踏み出し地点の基本原則といったようなもの これを主題としている。《民主的で自由な話し合い》の原則。そして そのための《必要条件たる基礎知識と十分条件たる提言のこと》を 取り組み方の上でいちおう これら二つに分け 後者の十分条件を満たすということ これ〔の相互理解〕に力点をおいた。
この主旨で《対話交通の思想》であり ここに一章をもうけて あらためて整理しながら話しを先へ進めたい。次節(§12−2)までつづく。
なお ここでの論点の一つは やはりAの同感人出発点を――つまり それに立ってのBの動態およびCの実践のそれぞれ有効のことを―― 抽象論としてでも 見過ごすことができないにというにある。経験科学にもとづく思想および理論は一般に Bの同感動態(その一般論)をその主な領域として 展開される。Cの実践を直接の対象としない点では 回り道である。迂回生産である。だからこのとき 一つの論点は われわれが Aの出発点同感人を――考え方・取り組み方の上で――先行させたいというにある。対話交通の思想と言えども そうであって このBの領域すなわち同感動態をそのものとして 先行させないということ。こういう今の回り道じたいの吟味をおこなっている。
その点では 次のように言い直して確認することができる。何か《同感動態人》といったいま一つの出発点が 同感人とは別にあるのではないと言おうと思うこと これである。Cの同感実践の主体も Aの同感人であり いまここで主題となるBの同感動態も あくまでAとCとの媒介領域であります。あるいはさらに それじたいが別個の独立した領域をつくるのでもないというべきであって このBはAの 属性であり はたらきであるというのが 一つの論点であります。
(2) Cの踏み出していく同感実践(実行)は Aの同感人がおこなうのであるから A・B・Cは まったく便宜上の区別である。われわれは 互いに内政干渉しえないとすれば その生活は Cの同感実践(つまり 生活行為)が ほとんどすべてである。ただし一般に Bの同感形成の動態を介しておこなうのである。対話・交通である。そしてもっとも その主体は どこまでも Aの同感人(つまり 人間という存在)である。
(3) Bの同感動態は すでに外面的にも他者とあい交じりあっているけれども どちらかというと Aの同感人の内面にかかわっている。とにかく人間 とにかく自己という存在またその自覚にかかわっている。しかもそれが 具体的な事柄を 認識し思考し判断していて そこでは 認識と思考と判断の材料となる必要条件知識を 持つ。提示する。しかもこれだけではなく 自己の判断である提言という十分条件をみたすことが じっさい 正当にも 含まれている。提言にかんして 提言じたい(つまりB)とその実行(つまりC)とを ここでは わざと区別している。
(4)出発点の同感人は――つまり人間は―― 歴史時間的にして社会空間的な存在であるから 歴史=社会的な一定の立ち場に立っている。互いに対話をおこなうわけであり たとえ対話を持たなくとも 直接・間接に交通しあっている。つまり同感人は すでにそのままで同感動態を持っており この踏み出し地点は 出発点のものである。出発点において初めに 自己の意志の主体的にして自由な判断を持つから 同感動態に踏み出していくのであり 同感動態を持ったから――あるいはその対話交通で一つの同意に達したから―― 自由な主体たる出発点に立つのではない。すなわち そもそも対話・交通しあう存在であるということと 具体的な事柄で交通し対話することとは 別であるから 別と見る限りで Aの推進力出発点とBの推進への踏み出し地点とを 分ける。この言うところは 一個の同感人が その意味で独立存在であるそのままのかたちで すでに関係存在であることだ。対話交通しあう《存在関係》ともいうべき同感動態は 上の限りで 同感人出発点の属性だということができるであろう。
(5) Cの同感された思想の実践は Aの《独立かつ関係的なる存在》の行為であり Bの《存在関係――すなわち 対話交通――》としての行為である。

A 存在 B 思考(問答) C 行為

と かんたんに考えてもよい。あるいは

A 能力〔の主体〕
B 能力の発揮の仕方
C 能力の投与じたい

とも考えられる。あるいは 思考を一つの軸として捉えるなら 

A 知解能力そのもの
B 知解行為そのもの
C 知解にもとづく行為

さらにあるいは 判断を軸にすると

A 意志〔という能力の主体〕
B 次の選択のための認識と判断
C 意志による自由な選択(判断の結果得られた選択肢からの決定)とその実行

などなどである。いや もう一点。人間には記憶能力もあるから つぎのようである。ただしこれについては やや逆の順序でのように

まづ 
Cの行為の結果=すなわち行為事実があり これを 
Aの記憶主体は
Bの記憶行為そのものをとおして 記憶する

(6) くりかえして 

A:出発点のAは 行為能力の主体である。記憶・知解・意志の三つ(三一性)の主体である。
B:踏み出し地点のBは これらそれぞれの能力行為そのものである。
C:踏み出し実践のCは 生活における事実行為である。

Cの事実行為は その結果たる行為事実となって 
Bの記憶をとおして
Aの主体に――むろん認識・記憶として――納められる。

(7)同感人と名づけた出発点は 単に《人間》というだけではなく 《わたし=自己》であります。基本出発点に立って 自己が自己であるとき(つまり わたしがわたしするとき) その生活の態度ないし行為は 《有効》だと言おうとおもう。これは ただ定義しただけのものであるが 出発点をただ人間というだけではなく 自己だとも言うときには とうぜん 価値判断が つねに生活態度の全体に 伴なわれているということまでは 言おうとするものだ。
《同感(同感人)》を《愛》とも言う場合が それである。《自由》とか《平等》とかの場合も そうであるはづだ。ただしこれら三つの概念をいじくる限りでは おそらく考えるに愛だけが――特には意志能力〔の主体〕として 愛だけが―― Aの同感人出発点のことを その限りで現わすといってもよい。一般には この愛と自由と平等とは Bの同感動態における認識・思考・判断の領域に 対応している。もう一つただし Aの《独立かつ関係的なる存在》のことを 理念的に《自由あるいは平等》と言って言えないことはない。ちょっと経験科学の行き方から逸れてよいとするなら 愛は 経験的にも用いられ しかもその経験やあるいは理念一般をも 超えるところの出発点=自己そのものだと言ってもよい。(だから その意味で 自由や平等ともが 超える領域だと言って言えなくない)。そう表現する場合も出てくるかと思われる。愛は 何を愛すべきかを知らないということが ほんとうにはありえないというとき 自己の存在そのものだと考えられるから。つまり 《同感人》と名づけることと等しい。
《同》は 二者以上のものの存在を前提するから 関係としての愛(その意味での意志)をあらわし 《感》は 知覚にかかわる経験現実を前提することをあらわす。要するに われわれは 自己の価値判断をともなうということ。
(8) 山口昌男の述べる思想が 十分条件をみたさないか それとも古い経験現実の思考形式で満たすのではないかといって批判したとき そのこころは――類型的・図式的にいって―― 生活態度の行為基準がトリックスターや道化のそれにあるというからである。つまりそのように言うなら それは おそらく 同感人出発点のAを立てるのではなく(または これを立てても それ以外にもこれと同等に別様に) 《もっぱらの同感動態人》を立てるということではあるまいか。もっぱらの同感動態人というのは その一回性としての同感にもとづく交通・対話を 大事にするのである。大事にすることはよいが その一回の成功事例を 後生大事に保守する場合であり その事例を 模型としてわざわざ《同感動態人》とするかたちである。
これは 端的に言って Bの単独分立であり それとしての変な独立である。異感人と異感人とのあいだを(もしくは 同感人と異感人とのあいだを)仲介することを もっぱらの役目として=しかも自己の存在そのものとしてしまって 世界を捉えたということである。この同感動態にかんする役割は われわれにとっては 同感人出発点の属性であった。われわれは 同感動態者(たとえば いわゆる客観知を提供するという学者)となることを 自分の生きることのすべてとは しないものである。われわれの心は Aの同感人であることにあって Bの同感動態のその成功事例にあるのではない。たとえ成功しなくても 自分のこころに従って 同感人にとどまることをよしとする。また その成功事例にみちびく必要条件としての知識とその獲得行為に われわれの心が 吸い込まれていくものではない。(これでは 成功しないはづだと気づく場合は もちろん別である。ただちに改める)。
《対話交通人》は われわれのはたらきであり その現われであり われわれの存在の動態的な側面である。じっさいその対話交通は 同感人を 中核の主体としている。またそれゆえ 同感の踏み出し実践(いわゆる現場の仕事)を 逆に 離別させない。もっぱらの仲介者(つまり 世界を再活性化する役割をもっぱら担うという人)を立てると そのBの同感動態(つまり 学問行為でもよい)から Cの実践およびAの出発点をそれぞれともに 分離させている。少なくとも間接的に一たんは 分離させている。ただそういう迂回作業にすぎないのだというぶんには われわれと同じ考えであるだろう。
(9)われわれは 同感人であり 同感動態は そのはたらきである。また 逆に それら二つとも 同感実践の場で――いちおう人間の論法としては―― その結果が出る。もっとも その後ふたたび・みたび この結果事実の認識および判断をめぐって 同感人が同感動態(対話交通)をとおして はたらくわけであるが。同感動態の専門家(学者や政治家)は 分業社会の中で 現存しうるが それは 出発点ではない。だから その専門的な生活態度は 人間一般(市民)にとって 部分的なものである。あるいはあくまで間接的に(迂回して) 全体観に到達する。だからこれらの点は(また これらの点で) 山口説の批判じたいが 目的ではない。
(10)仮りに想定したこの《もっぱらの同感動態人》というあり方は そうとう広い範囲の問題にかかわると思われる。
(11)異感実践のあいだを取り持つもっぱらの同感動態人は いってみれば第三者理論である。われわれは 《同感人‐同感動態‐同感実践》これら三つのうちいづれの一つをも他に先行させないならば――つまりそういう同感人出発点であるのだから―― あくまで どこまで行っても 当事者理論である。現地人理論である。一人ひとりの生活者が あくまで当事者として 生活の推進をめざして 話し合い 実行していく。当事者の一つの属性として 時に 仲介者になることはある。また 第三者という立ち場も なきにしもあらず。その辺の臨機応変は われわれ生活者の得意とするところである。
(12)くどいように繰り返そう。その昔 トリックスターや道化が 専門的な仲介者たる一身分のような者として 活躍したかも知れない。そして現代でも 上に言ったように 当事者が この役割りを 部分過程において《演じる》ことがある。そして 基本的な考え方としては もうそんな専門分化しそれだけで独立した役割を引き受ける身分は ないと考えるべきである。
たとえば弁護士などを含めていろんな調停者も いくらか究極的に・ということは観念的にでもあるのだが考えるに究極的には そのような第三者の仲介を なしで済ますことを 一つの目的としている。弁護士の能力のある人が 本人みづから当事者として仕事をするばあいは 別である。すくなくとも いけにえの文化構造に激しく接するだけではなくその構造じたいを成り立たせているような 自称身分としての《道化》に頼っていては いつまでもわれわれは 半人前である。また 当のトリックスター氏も それはもう奇形児である。もしくは 王と市民との取り持ち役として 結局は 寄生児にしりぞく。
(13)仲介者をもっぱらの仕事としている人とて 自由ではないであろう。
(つづく→2008-02-12 - caguirofie080212)