caguirofie

哲学いろいろ

#63

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 d

§13−3(つづき)

わたしはこの立言を 弱い同感動態だと思う。そうだとしたら それは どこでそうなのであろう。《そんなこと――すなわち 自分自身の無辜純粋について確信を持つこと――をすれば 傲慢の罪を犯すことになるだろう》と述べるところだ。そう述べるパンゲは 《傲慢の罪を犯した》ことはないのだろうか。もはや犯すことはないようになっていると言うのだろうか。そうだとしたら 傲慢である。からである。もしくは われわれの同感人出発点は 説明理論として 無記である。善とか悪とかと記すために この出発点を言うのではない。この出発点の推進こそが有効だという場合には 価値判断をまじえており その同感人存在は いうとすれば善だと言ったことになっているのだが それらは われわれ人間の存在出発点を――循環論法ではありながら―― 同感人なら同感人だと立てるという生活態度の説明としてである。その限り 主観の表明である。このときこの限りで わたしたちは 自分自身のムコジュンスイを信じて(また とうぜん 同時に考えて) 対話交通での主観の意見を 確信をもって 述べるのである。
弱い〔存在だ〕からでなければ そうはしない。だが 同感動態のほうでは 強くなくとも 弱くなる必要もない。(あやまりがあるかどうかは また別の問題である。と見ることができるはづだ)。
だが 傲慢でないかあるかなどというのは 一般論として そうかんたんに 持ち出すことは むつかしい。自己の内面で 持ち出していることはあっても 一般的な議論で それを一つの論点や論拠として 話しをはこぶというのは むつかしいのである。まったくの第三者理論というのは おもしろくも何ともない。また そもそも ありえないだろう。傲慢という原子や分子の話しでないなら。あるいは もしお望みなら ごく単純に きみはこれこれの点で傲慢じゃないかなどと 言ってしまえばよいのである。仮りにもし《死は耐えるに易きものであって 死に逸る心がある》とするのなら この心を《なだめてくれる》のは 対話・他者との同感動態で 自己(あるいは他者の自己)が 傲慢か否か 罪を犯しているか否かなどを 容易には言えないということが なのである。裁くことができないというのが なのである。
だからむしろパウロは 引用文の中にあったごとく 《極めて率直に告白している》のだ。パウロが自分に《罪はない》と言っただろうか。しかし 《確信をもてない》などと愚痴をこぼしたことがあっただろうか。アウグスティヌスが 《罪あるあなたがたは すみやかに死につきなさい》などと言ったか。かれが いつどこで 《神の審判に対するあるべき恐怖心によって 自殺禁止を定式化した》か。(それは まちがいでなくとも 第三者理論であるだろう。もちろんパンゲは 自分個人のこととして 述べてはいるのだが。ただし だとしたら かれは 神の審判を見てきたことになる。どちらにしても 上のような立言は 弱い同感動態であるか もしくは 傲慢であるかなのである)。《愛》と《正義》とが いつどこで ちがったものになるのか。しかし これの場合は 両者とも 真理のことであるという想定の中での一議論であるが。
《神への愛ゆえに――ともし言うのであれば―― 〈死という聖なるのぞみ〉を心に抱くようになった人々》が いつどこで 同感人出発点から離れようとしたというのであろう。天なる国へ舞い上がって行ったとでも言うのだろうか。だれも《自分自身の無辜純粋について確信をもて〔るはづが〕ない》ゆえに 同感人出発点にとどまる。それをもしそう言うなら《死という聖なるのぞみ》という言葉で 言ったにすぎない。かれらは 生きているのである。同感動態の対話を すすめようとしているのである。だれが いつ 《死にたい》などと言っただろう。権力者の圧制に抗して 死をもって わざわざ 自己の同感人出発点の愛のありかを示してやると言ったのか。圧制する虚偽の・無効の権力機構に対しては わたしは恐れないと言ったまでだ。しかも 何か特別のことをしたいとも 言っていない。殉教の時代にも全く同じなのであって とうぜん 死(自殺行為)を避けつつも 迫害の死から同感人持続かを迫られたときに 後者を選んだまでである。迫害の死あるいは迫害の行為じたい これは 結果事実として同時に選んだ恰好になっているが こちらは 無効である。つまり えらんでいない。(神キリストの観点からどう見るかは わたしには分からない。ただし人間としても 犠牲を引き受けるという意志と意識とは ペテロらにあったかも知れない)。
《この世に対する嫌悪》が どこにあるのか。ないから 無効の行為に対して 憎む。自分が 無効の行為を侵さなかったというのではないとき もしそうなら《死という聖なるのぞみ》という表現が 流行ったのである。《いかなる迫害が存在しても いなくても》同感人の持続に変わりはない。わたしは 迫害に対して迫害の中を うまく泳ぐといった 同感人喪失に陥りたくないから 少なくとも今 確信をもって述べるのである。傲慢であり弱くなかったなら そうは言わないし 言い出さないであろう。《自殺は 闘いの最後の手段》などではない。闘いというなら わたしたちは すでに勝利している。と聞いている。自分自身を無辜純粋だとは思っていないからである。
ただし 《私の願いはと言えば この世を去ってキリストと共にいることである》と告白する人は もう自己を責めないである。自分の弱さを知っているとき 《だが私自身に対して 私自身の無辜純粋について確信をもてるだろうか》と 自問して責めたりしない。つまり 対話として そんなことを言わない。また 自分ひとりの力で 確信を持てるなどとは はじめから 思ってもいないだろう。確信を持てるなどと思ってもいないのに 自問することはない。だが 確信をもって 同感人出発点の同一にとどまるという意味のことを言った人びとは いるし 古い時代には古い表現を使って言ったし それらは しかし 同感動態の対話過程として 語りあおうというのである。そのひとこま一齣である。――むしろ 通俗的な事態として言うならば 確信を持っていると確信している人びとが 《私は確信をもてるだろうか》と 公にして 言ってみせるのである。
傲慢とか高ぶりとかに関連してアウグスティヌスが たとえば次のように議論するとき それは まづすでに信じている人に対して語っているのであり しかも その時代と社会とにおける交通文化のあり方からして 教義とか神学とかとして 表現している。そういう制約はあるが パンゲの信仰表明と比較できる。だから いづれにしても 思想どうしとしての比較である。わたしは パンゲの考え方が そこで 批判されているとまでは言わないとしても 弱い同感動態だと受け止めた内容を つづけて持っている。

人間の高ぶりを撃退するために使徒パウロである)が 《あなたのもっているもので もらっていないものがあるのか》(A)と語ったこの証言は いかなる信徒にも 《わたしはもらったのではない信仰をもっている》と語るのを許しはしない。こういった返答の不遜さはすべてあの使徒の証言(=A)によって決定的に撃破されるのである。それのみならず 人が次のように語ることもできないようにしている。すなわち 《わたしは完全な信仰をもってはいないにしても それによりわたしがキリストを初めて信じた信仰の出発点はもっている》と。というのは ここでもまた次のように答えられるからである、《あなたのもtっているもので もらわなかったものがあるか。もしもらっているなら なぜもらっていないもののように誇るのか》(コリント人への第一の手紙4:7)と。
アウグスティヌス:聖徒の予定 4)

《わたしは自分の無辜純粋について確信をもてるだろうか》と わざわざ それについて 言い出すのは 自分を誇っていることである。つまり 人間の論法で――ただし 道徳としてではない―― 言いにくいことを もし言おうとおもえば それは 謙虚ではない。他方で 《自己の弱さを誇る》ことは 出発点の謙遜であるが 出発点の推進を 確信をもって語っていくことのほうが よりいっそう謙虚である。すなわち その他方での《誇るなら自己の弱さを誇ろう》というそのことのゆえに われわれは――その同じ基本線で―― 交通対話において 確信をもって 行動する。つまり 出発点同感人の確信をもってであって 知識や理論のそれでは必ずしもない。《わたしは自己の聖なることに確信をもてるだろうか》という表現での切り出し方は 自己の弱さの(すなわち 同感人出発点の)確信をではなく いまそこで述べようとしている知識や理論に対する確信を 確実なものにしようと図っている嫌いがある。そして全体として見て 心理起動力に訴えようとするところの確信を 確かなものにしようとしている嫌いである。
アウグスティヌスの引用文の後半の議論では 《信仰の出発点はもっている》というのなら 《完全な信仰をもってはいないにしても》と わざわざ ことわる必要はない。もしくは そのようにわざわざ 見せびらかす必要はないということだ。それでは 《完全な信仰――生活態度の確立――》を持てた・持っていると言えということか。もちろんそうではないのでもあるから たとい信仰のことはおっぽり出しても 人間の・日常のことばで 対話せよ・話し合おうということなのである。
(つづく→2008-02-19 - caguirofie080219)