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哲学いろいろ

#62

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 c

§13−3

わたしはパンゲが 次のように述べるとき おおむね同意する。

《意志的な死》が日本文学のなかに残した痕跡をとおして わたしはそれぞれの時代の精神がみづからを明らかにして行くのを見た。そして歴史生成のあらゆる契機において 個人の心理と集団の心性(* つまり どちらも われわれの言う《接触・参加》の場における心理であり問題である)が自殺するその人間において結合されているのを確認した。これ以上に個人の内面にかかわる行為はなのに(* すなわち 心理作用をどう捉えるかで 出発点や踏み出し地点また実践に かかわる) どれひとつとして社会と時代精神の深刻な影響をこうむらないではいない。

  • ただし これは まだ 《影響》を言うまでである。左右されるわけではない。そもそも 《心理》とは 外からやってきて そういう影響をあたえるものである。精神は 別に 奥に控えている。

それぞれの場合に 《意志的な死》は この行為の意味が汲み取られる人間的環境の矛盾を 暗闇から浮かび上がらせている。(* 交通影響に場面や情況として そうである)。したがって 社会学的観点(* 生活実践の事実行為ないし 行為事実)と心理学的観点とを結び付け 全体的分析と個体的分析とを相互に補完するようにしなければならないだろう。
(日本版への序)

さらに言うならば 《個体的分析》=当事者理論を 基本としなければならないであろう。しかし わたしたちはここで ここから 《心理起動力》で飛び立っては行かないであろう。そうしてはならないであろう。
この後者の点は パンゲが明確に言っていないけれども 《社会学的観点と心理学的観点とを結び付け》るというその能力行為じたいの内実のことであるにほかならない。その内実に踏みとどまるということ。個人の 理性・精神活動が 心理一般を 対象として捉えている。したがって これを推し進めるなら パンゲは 《意志的な死》を取り上げるけれども それは 特には過去のこととして それと現代とのつながりを見てみようというものである。すなわち すでに現代において当たらし局面で 古い問題点を当事者の現在過程としての同感動態。これのパンゲ自身の意見表明。
そうだと思われる。すなわち 現代ではもう遺物に過ぎないとまでは言っていないとしても じっさい問題として この自死は それが有効なものであるなら あいまいな同感動態のこととして(あるいは あいまいさを――自死で――断ち切ったことによって あいまいとなったそれとして) 成り立ちえたというふうに ひるがえって かつ すすんで 今では 見ているし 議論しているのだと思われる。こう受け取るべきであると思う。《例外的な諾》を認めるときにである。だから 前節の論点を蒸し返すなら ただし 告発の観点を重く見るほうへ進むべきではないだろうとわたしたちは考えた。

一般的な言葉で《意志的な死》について語るのは それを断罪するためであれ賞讃するためであれ わたしにはあまり意味のあることとは思えなかった。ことがことであるだけに 人は自分が何を考えているか本当に分かっているとは限らない。その人間の内なる信念が現われるのは 彼が言う言葉(* 観念としての行為事実)においてでもなく 彼がそうだと思っている思い込み(* 心理活動)においてでもなく 彼が為す行為においてなのである。現実というものは ときには思いもかけず 単なる思弁よりも豊かで実り多い側面を見せてくれる。・・・
(同上箇所)

こう述べるときには 事実行為・またその生活実践としての行為事実が すでに 同感人出発点と 確かにつながっているということを 言おうとしている。また そういうときにこそ 心理的な起動力による自死であったと仮りにしても われわれは これを こんどは あとに残された者として そして第三者としてでも その死者と〔そしてかれをめぐる直接の交通関係者たちととも〕 対話し 同感動態をさらに進めていけるというものである。言うとすれば 死者も生きるわけである。あまり大きい声で言いたくはないが こういうときにこそ かれも生きつづけるわけである。また われわれは こういうとき――その過程時間――の持続をめざす。
わたしは――わたし個人は――

《本当に重要な哲学的問題は一つしか無い。それは自殺の問題である》という『シジフォスの神話』巻頭の言葉をわたし(=パンゲ)は忘れていたわけではない。
(同上)

という表現を持たない。自殺――その事実行為――の問題は わたしは関知しない。事実行為は 生活態度の全体と かかわっていると言ったけれど 事前的にも事後的にも そして自殺という事実行為にも わたしは関係しない。どこかで あるとき その場に居合わせて 接触を そしてさらには対話の交通を持つかも知れない。出発点での関係は ない。すなわち このことは 同感人たる関係存在として 出発点において つまりその自殺する人との関係において(さらにつまり 人間であるならということだが) 関知していることを 意味するしかないのだから 自死( mort volontaire )なら自死として この自殺( suicide )を取り上げる議論に おつきあいする。パンゲは 《あまり意味のあることとは思えなかった》が とりあげることになったと言う。こういう本が出版されるのには 現代の現在過程として ジラールの提起した問題が 少なからず 意識されているのであろうか。それとも 或る種の見方で 特殊な主題の意識なのであろうか。われわれは 特殊の問題も 取り上げてもよいのだし 第一部のはじめのジラールの議論で 犠牲の問題を 保留していたところがあったから その関連でも もう少しパンゲの書物に当たる。


結局 犠牲を引き受けるということも それ以外に 自己の同感人出発点(その知恵)の同一に留まることが出来ないという場合に 起こることである。犠牲を それじたいを目的として 引き受けて行くということはないのであって こういった自己(その存在)の否定に対しては 基本的に 否とこたえるしかない。そして この否の命題と矛盾することなく 諾も起こりうるのであると見る視点にも触れざるを得ない。すなわち どう起こりうるか 確かにそれでよいのかは 当事者個人の問題なのだ。わかりやすく言えば その人の確信の問題であり 一般的な理論としてあえて言えば 出発点同感人の持続動態として それをも選ぶという場合である。われわれは そのときには 一個の独立主体であると同時に関係存在でもある人間として 犠牲をも引き受けているのだと考える。自殺にまで至ると もう当事者じしんに すべて任す以外にないであろう。《死のヴォランティア》という意味で《自死・意志的な死》を 《犠牲》論のもとに 捉えうるかどうか。わたしたちは 他人として分からないし 内政干渉できないであろう。これが 《本当に重要な生活態度の問題である》と われわれは 言ってよいのかどうか。抽象的に《出発点が一つだ》という考え方としては 成り立つのではないだろうか。つまり これは 逃げたかたちでもあるのだが。
パンゲは アウグスティヌスが例外的な《諾》の例として サムソンの場合を挙げていると述べている。わたしは自分なりに考えると イエスと同じように はりつけの刑に遭ったペテロなどの場合を 思い起こすとよいと思う。

エスは言った。
 ――わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておきたい。お前は 若いときは 自分で帯  を締めて 行きたいところへ出かけていた。しかし 年をとると 両手を伸ばして 他  の人に帯を締められ 行きたくないところへ連れて行かれる。
ペテロがどのような死に方で 神の栄光を現わすようになるかを示そうとして イエスはこう言ったのである。
ヨハネ福音21:18−19)

と聖書記者ヨハネは語っている。ここのイエスは すでに死んだあと復活したイエスなのだから いまわれわれの議論になじまないところがあるが そのあとさらに次のような話しもうかがえる。

ペテロは彼(ヨハネ)を見て
  ――主よ この人はどうなのでしょうか。
と聞いた。イエスは答えた。
  ――わたしの来るときまで彼が生きていることを わたしが望んだとしても お前になんの関係があるか。お前は わたしについて来なさい。
・・・
(承前=ヨハネ21:21−23)

アウグスティヌスの見解は この物語の含意と同じだと考える。なお 宣教としての宣教の時代が終わっていると考えるなら こういったペテロらのそれにたぐいする犠牲の時代も終わったと考える。

長くなるけれども パンゲが次のように言うところを聞こう。

〔* アウグスティヌスによって定式化された〕この自殺禁止の厳しさは約束された救済に見合ったものでなければならなかった。〔* 人間の論法で言えば われわれが《同感人出発点でありつづける 人間でありつづける 〈わたし〉でありつづける》ということと見合ったものとしての 自殺禁止およびその例外的な事態としての犠牲の引き受け。一つのなぜなら 弟子ペテロらは 捕らえられて殺されることを分かっていて 宣教活動をおこなったのだから それは 自殺と言われてもおかしくなかったから〕。
・・・だが殉教の時代は終わった とアウグスティヌスは言う。・・・たとえこの世に対する嫌悪がなくとも いかなる迫害が存在していなくとも キリストへの愛(* 出発点同感人としての人間への愛)というただそれだけのことで死は 耐えるに易きものとなり さらには 望ましいものとさえなる場合もある。《私の願いと言えば この世を去ってキリストと共にいることである》と 極めて率直に聖パウロはピリピ人らに告白している(ピリピ人への手紙・1)。そのような人々の心は 聖女テレサが驚嘆すべき一句をもって言い表わした逆説を生きていたのである。――《私は死ねないがゆえに死ぬほど苦しい》と。だがこの愛の神は同時に正義の神でもあることを思い出すべきであっただろう。私は確かに神を信じて疑わない。だが私自身に対して 私自身の無辜純粋について同じように確信をもてるだろうか。そんなことをすれば傲慢の罪を犯すことになるだろう。こうして 《神の審判に対するあるべき恐怖心が死に逸る心をなだめてくれるのであった。
(第八章)

わたしはこの立言を 弱い同感動態だと思う。そうだとしたら それは どこでそうなのであろう。《そんなこと――すなわち 自分自身の無辜純粋について確信を持つこと――をすれば 傲慢の罪を犯すことになるだろう》と述べるところだ。そう述べるパンゲは 《傲慢の罪を犯した》ことはないのだろうか。もはや犯すことはないようになっていると言うのだろうか。そうだとしたら 傲慢である。からである。
(つづく→2008-02-18 - caguirofie080218)