caguirofie

哲学いろいろ

#67

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》h

§13−6 山口昌男歴史・祝祭・神話 (中公文庫 M 60-2)

ここでふたたび山口昌男の議論をはさもう。たとえば こうである。山口も いまの犠牲の問題について発言していて 次の文章は 断片的に取り出すけれども 主張内容がそこでは よく煮詰まっているようである。

 エヴレイノフは《生活の中の演劇》という著書の中で人間が 動物から引き継いだ演劇的本能(* われわれは 心理起動力と言っている)について 日常生活のすべてのコミュニケーションの基礎は演劇本能にあると説いた。

  • つまり 接触と対話との交通というすべてのコミュニケーションの基礎だということのようである。われわれはこれを もっぱらの心理起動力となったものとしては 無効であると言っている。

 ・・・しかしバークの理論が示すように 演劇的コミュニケーションは必然的に アンチテーゼ(* 《納まりの悪いもの》)を明確化して 行為の文体の内的充足感を確保することに使われがちである。

  • 無効の異感状態が発覚するのを恐れ その発覚をみちびく解明者を敵とし この敵と闘うことで――つまり長くなるが言いかえると 解明されるべき同感人出発点に自分もすでに同意しているということを思い出し 事後的な予防線(?)を張るようにしてこの出発点のことで武装しようとし ただしわづかに この出発点の記憶を 想像世界の彼岸に描いて 武装する。こういったかたちで わざわざ作りあげた敵(* =《アンチテーゼ》)と闘うことで やっと 出発点存在たる自己の《内的充足感を確保する》ということになる。すなわち心理起動力は 異感状態が好きなゆえに わざわざ敵をつくり(これを 自由競争とか 競争の持つ推進力の功徳だの美徳だととかと言う) ひいてはこの敵を犠牲にまつりあげるというところまで 行き勝ちである。次に このまつりあげが 視覚化をともなって 演劇となって現われると説く。演劇とは 台本があるということ。台本があるということは 計画犯だということ。少なくとも第三者理論である疑いが濃い。

その帰結が《はたもの》の視覚化であるという陥穽を避けるのは大変難しい。

  • そしてこの議論は ソヴィエト共和国の初期の社会をあつかっているから 次のようになる。

そのもっとも悲劇的な結論 エヴレイノフの言葉では《一種破廉恥な劇場ごっこ》がスターリン体制であるとしたら スターリン体制は われわれの日常生活の論理の底に潜んでいる 人を行動に駆りたてるなにものかに根ざしているのである。

  • すなわち もっぱらの心理起動力の 社会的に実効性をもつその局面ということに 議論の焦点はある。《はたもの》とは 犠牲のはりつけである。一般的に次のように まとめられている。

多くの伝統文化は このなにものかに形を与えることを文化の叡智として知っていた。技術文明および人間についての合理性と 日常生活の枠の中で形づくられた文明は それが表面的にはどのようなイデオロギーと体制を標榜していようが このなにものかとの接触するための通路を閉ざしてしまった。

  • いわゆる理性の重視 理論信仰は 対話を重んじるが 接触・参加の交通を 二の次と見なしがちになるという。まして 心理起動力なる《なにものか》は 軽視してよいとも考えられるという。

しかしこのなにものかとは コミュニケーションの神話的基礎をひそかに(* われわれに言わせれば 無効のうちに)形成している。

  • 接触・参加の通路を閉ざすものではないが われわれに言わせれば もっぱらそれとして蠢く心理起動力のなにものかは あいまいな同感動態であるという。つまり タカマノハラ神話症候群となった異感状態の推進力。これを無効だというときには それを軽視するとか重視するとかにかかわりなくなる。ただ 接触・参加あるいは対話の道は つねに開けているわけである。

そのために 人間行為の中で 次第に放射されざるを得ない。

  • まさにそうなのであって 異感状態の神話症は 同感人出発点をみづから知っているために しかし神話症を好んで その解明を恐れ 同感人出発点を想像するという予防線を張り さらには この想像を念観・念力として 敵と見なした解明者に向けて 放射線を発するのである。念のために言えば 物理的にこれをおこなう。また結局 心理起動力の喚起(また 伝染)としては 味方に対しても 放射する。

文化がそういったコミュニケーションについての機能を停止したところでは 詩人たちが自らの身と心を危険に曝して つなぎの役を果たした。

  • ということは とどのつまり 前半の意味するところは 心理起動力のはたらきを 無効とみなした文化情況では というのである。山口にしてみれば ここで 有効なのに 省みなくなったところで という意味である。後半は 山口にしてみれば 《詩人たち》が 心理起動力をも省みて その復活への仲介を果たした。われわれとしてみれば これをも 無効という。《詩人たち》は やられたのである。いかれたのである。と考えるが 山口にしてみれば さらに しかし――

しかし 《存在》の秘密をあばいたという事実が 存在という名の《地霊》(*――《地霊》!!!――)の報復を招く。

  • 山口は みづからが 心理起動力の神話症候群にかかっていなくとも この《地霊》たる心理起動力の放射線と おつきあいするというのである。《地霊》も《存在という名》で同感人出発点のことだと 考えられている。そういう山口には 《同感動態人=仲介者》としての使命があるのであろう。

そこに成立した《鎮魂》の説法において 仲介者自身が血の《犠牲》に供されなければならなかった。
山口昌男:《メイエルホリド殺し》 『歴史・祝祭・神話 (1974年)』所収)

最後の一文への註解としては こうである。引用した議論の文脈に沿っては 《仲介者》つまり《放射線の地霊とふつうの生活者とのつなぎの役を果たす〈詩人たち〉》は トロツキーやメイエルホリドのことであるが わたしたちは必ずしも かれらが 地霊に《やられた。いかれた》とは思わない。つなぎの役をわざわざ《自らの身と心を危険に曝して》果たしたとは なかなか 見がたい。一般論としてまづ そうであろう。だが わざわざそう見るのなら その場合には そのなにものかに 踊らされたのであろうという。(これは わたしの経験からいけば 不注意の結果でなくとも 一時的に 起こりうる)。いづれにしても 山口は この仲介者実践に対して 讃歌をうたう。手放しのであるのかどうか それをものり越えようとして ただ過去の認識として後ろ向きにのみ そう言っているのかも知れない。ただし おそらく 前向きの新しい局面においても 大筋は この同感動態人こそが わたしたちの理論では同感人出発だというところの踏み出し実践であるようであり その宇宙論的な根幹だというものであるだろう。もしトロツキーに対してひとこと われわれが述べるべきであるとするなら それは 《地霊の無効行為に対しては子どものようであってよいが 考え方としては大人になりなさい》である。山口は その行為事実の軌跡を讃えているが われわれは 踊らされ過ぎたところがあると見なければならない。
 もし山口に対してわれわれが この文章にかんして言うことを持つとすれば 《そこに成立した〈鎮魂〉の説法 つまり ここに成立したトロツキーら詩人たちへの鎮魂のうた これにおいて トロツキーらと同じように山口という仲介者自身が 血の〈犠牲〉に供されなければならない》というふうな読みを われわれ読者に あたえているのではないか。この問いである。
(つづく→2008-02-23 - caguirofie080223)