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哲学いろいろ

#52

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−9

われわれは 一人ひとりが 知恵を出し合っていく それが一般論として重要だという当たり前の踏み出し地点のみを ここでは 語っている。しかもこのことが 現代思想として 重要だと考えたからである。
もう一度整理すると 知恵を出し合っていくというとき その必要条件の知識と十分条件の提言とを 区別することも 必要となっている。(知識の方面で専門分化がいちじるしいからであり 提言の方面でも専門分野ごと・もしくはその綜合というかたちをとる)。だが 具体的な方策を提言するにせよ 基礎知識を提供するにせよ それは 民主的で自由な対話の過程でしかないということ。
対話の過程において 一つには 出発点の論議が 相互理解の上で――迂回的なかたちで―― 争われるものと考えられた。そしてこの論点では必ずしも細分化しない。出発点論争は 一般的に タカマノハラ理論として形態を――説明形態としては―― およそ取るものであろう。人間は考える存在であるが 信じるということも 為す。信じるは とうぜん 考えることを離れはしないが それを超える部分をも持つ。これは 《考える》が 歴史相対的だという意味にとってよい。ただ その上 《信じる》を立てる場合も全く排除されえず それは一般に アメノミナカヌシ理論という形態をとる。説明原理として ふつうの議論にも出てく来うる。考えるですべて行く場合は ムスヒ理論である。このどちらも 大きくはふつうの人間の思想であると思われるが これらの出発点が 人間の異感状態から立てられるときには ムスヒ理論のうち カムムスヒ出発点は さまよえるアニミスム心性のものであると考えられ タカミムスヒ出発点は シャーマニスム心性による指導者理論(統治理論)であると考えられ また アメノミナカヌシ出発点は 一般に被指導者となったアニミストと指導者のシャーマ二ストとのあいだの 調和を きわめて良心的に はかろうとして 模索するその意味でのパラノイア人にもなりうる学問心性である。
それらだけでは具合がわるいだろうと考えられたそのわけは ムスヒ理論のばあい もうそれが 経験現実にもとづこうとしているのであるのに その経験現実の背後に――あるいは 個々の現象そのものの中に―― 神やデーモンなどの超経験的な力を 見てはばからないからである。汎神論たるカムムスヒの宗教理論が それであり 他方 人間存在の推進力をとらえるタカミムスヒ理論は このアニミスム神話症候群を自分では超えているのに そのアニミストを指導しようとして 自己の出発点とするタカミムスヒを やはり超経験的なものに 結びつける傾向がある。自己が神になる〔と思いこむ〕と言ってよい。少なくとも死ねば神なる存在になれるであろうと思ってのように 現在の自己の推進力を そこから起動させる。
パラノイア人となりうるアメノミナカヌシ神話理論は 統一神なる力を求めて(これは 真理と呼ばれる場合もあるのだが) およぼ観念的に――言いかえると 自己の人間の行為能力を 統一神の想像のもとに 念観して―― たずさえ その良心的であろうとすることが 異感関係のあいだに観念的な同感共同をもたらしえて それが 出発点であり終着点でもあると 考え勝ちである。もしくは終着点は どこにもなく 永遠の同感共同の追い求めとして 結局は 自己も 異感関係の中にあって さまよう。良心的というときには 停滞(ないし異感)しなくとも 滞留が 自己の自乗ではなく どこかに付随物を帯びその意味で二重になりがちである。つまりその限りで 〔良心とか理念とかの〕偶像に訴えがちとなる。同感人出発点を良心的に尊重することによる倫理的・観念的な共同 その調和や均衡を目的としがちである。出発点の同感人とは 自覚のようなものだと言ったのだから 良心とそれほど違わないのでもあろうけれど この良心や自覚は あくまで個人的である。そして わたしがわたしに わたしを掛けて 自乗してゆく。良心主義のばあいは 自覚を集団のあいだでの規律のようなものにしがちである。
こういった個人観・個人理論ではあるが われれは 近代人という歴史的な人間の出発点をとらえて これを同感人であると考えたし あらためて立てた。その限りで アニミスト・シャーマ二ストそしてパラノイア人の場合は その思想が 同感人の傾いた異感状態に発しているから 無効であると言い切った。すなわち もとに戻って ふつうに知恵を出し合っていく民主的で自由な対話の過程 これが 同感人の踏み出し地点であり そのほかに別種の出発点を立てるのは あやまりではないかと考えた。出発点の二元論や三元論も成り立たないと考えた。複数の出発点を持つときには 人間の相体性とは言うものの じつはそれは まったくののっぺらぼうであり 多様性とかも そこでは成り立たないと考えた。言いかえると 各人は互いに自己の知恵の同一ゆえに 多様であると考えた。また 同感人は 生活基礎の経済活動をそのまま生活基礎の経済活動ととらえて 全体の社会生活をいとなんでいく。これが 《わたしがわたしする》基本的な出発点であるとして 当面の歴史的には まちがいないであろうと考えた。
ふたたび元に戻って歴史研究からの必要条件なる知識と それにもとづく十分条件なる提言 これらによって 現代の思想を構成し 形成してゆく。
抽象的な議論では らちが開かない部分があり かといって ここでは 具体的な提言をずばり述べるという行き方をとらず まづは 踏み出しの一般論 したがって現代人としての踏み出し地点 この点にかんして 対話にあたっての交通整理をおこなおうとしてきた。そして ある意味で まだ 対話というものが始まっていないとき すなわち対話の場の形成じたいのための必要かつ十分な条件は何なにかといったことがらで 考察してきた。それは 特には 人びとが自己の意見を述べるときの・あるいはそれ以前の 感性的な状態に 焦点をあてなければならないということであった。アニミスムやシャーマニスムの心性をすでにのり越えていても それらとの結びつきのほうを たしかにこの局面では 基軸としてのように捉え 議論する場合の思想動向である。《同感人》という出発点は 誇っていうなら これらの局面にある思想動向に対しても 同じ類型での思想動向となってのように 有効な把握を与えることができると考えた。
これらで 対話の場が成立したとするなら これからは もう具体的な個々の問題や論点について 各論を始めていく段階である。そして ここでは あくまで なお踏み出し地点という一般論にとどまろうと思う。それは 提言の十分条件というものは 確かに 過去からの歴史事情の中からなされるものであるから その歴史事情を必要条件として明らかにするその作業においても 間接的に触れられていると言う事が あるからである。それに 各論は その各論に直接かかわりのある立ち場から また その立ち場の人びとと直接かかわる立ち場から なされるのが ふつうであるし 一般人が 各論のすべてに対する解答をならべたてればよいというものではない。また わたしには その能力もない。だが言いかえると 誰もにも その能力がじつは ないのではないのであって 特に各論のばあいには 局面展開という要素も大きいのであって 提言は この変化する局面にそれとして制約を受け そのつど 意見を出し合っていくと 言わざるをえない。で もう少し 踏み出しの一般論を 考える。
というのは 対話の場の成立は じつは われわれの考え方からいけば 無効の異感人状態による提言なり知識提供なりが 有効な同感人として おこなわれることを 意味するのであるから それ(つまり 対話の場の成立ということ)じたいが われわれの一つの目標であるものでもある。問題に対する正解も重要であろうが さらにそれよりも 問題に対処するときの取り組み方の正解――それの実現――のほうも 思想の大きな部分を占めると考えられる。成立した対話の場への参加ということである。あるいは 参加による 対話の場の成立ということである。この参加の論点はもうここで発展させないけれど 同感人の有効から発する思想ないし提言も まちがいはありうるとしなければならず しかも有効な出発点の展開過程であるという点では――つまり 誰もが自由に知恵を出し合っていけるということの実現の点では―― 一つの目的であるものでもある。それでは正解など出っこないであろうという批判との兼ね合いが また実際には 問題点となるであろう。そして われわれは その批判内容を先行させて すすむわけには行かないであろう。この限りでは 各論の話し合いにかんしても 踏み出し地点の基本原則は とうぜん 有効だと考えられ ここではその一般論に なおとどまる。
現代人は このことをすでに 学問や法律の条文や道徳の規範などとして 持っているのだが ここでは そういうような一般論としてでもなく なおそれらが動態過程にあるものとして そのときの踏み出しとして 考えておこうとするものである。これは 思想の一つの役目だと考える。文学はこれを 想像力の中で 虚構作品の中で おこない 哲学は 一般に いろんな可能性を考慮するが それらを形而上学的に おこなう。社会科学は 対象分野を決めて 必要条件の知識を提供するか 各論としてすでに十分条件の知識を提供するか どうおこなうか どう踏み出していくか これを考え合っていくのが 思想の役目である。つまり生活態度であり 社会生活の動態そのものである。
だから 《周縁性の歴史学に向かって》(第九章)旅立つことも ないと思われる。もちろん――わたしが勝手に解釈すれば―― 山口昌男は このことによって 思想を歴史学と言おうとしているだけなのであり 周縁性を重視するのは 踏み出し地点をそれとして捉えているのだと考えられる。必要かつ十分な条件を満たす思想――《歴史学》――は 《周縁性・境界》の地点から 踏み出されるものだと言おうとしている。ここでも われわれの考え方とからみあう。
(つづく→2008-02-08 - caguirofie080208)