caguirofie

哲学いろいろ

#51

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−8(つづき)

治癒といっても 誰が治癒されるべきか 治癒するとはどういうことなのか 誰がなぜ治癒するのか ということは その社会に住む人間の信仰体系や社会構造に関わる問題である。〔と山口とともに われわれも考える。ところが〕こうした広い文脈で把えると 医者と患者の問題は 各々切り離してではなく 両者を一つのカッコに入った関係として捉えなければならない。
(第八章)

として 考えていくのは それは 一般論として成り立つようであるが また その一般論が 社会全体を統合するような顔蔽い(繭。早くいえば 思想統制)にも なりかねない。病いの感性的な不法侵入に対して それらを 上から ひとからげにして 病院社会(治療社会)を現出するような思想形態に行きかねない。少なくとも思想的に見て 出発点の異感は無効であるのだから 患者というものは そういう言葉でとらえることはあっても やはり無効なのである。無効の有力に対して われわれが交通するとき 医者でないわれわれが 医者となりうるし それは 人間の存在として 医者も患者もそもそもいないということを 納得させうるために そういう交わり形態をとるにすぎない。患者に対して 患者というものは いないということは 伝えてあげるのである。まだすべては 個人(つまり出発点)の問題であり それであってよいし むしろこの問題では これで行くべきであろう。つまり 思想(生活)で対処していてよいのである。
方向性においてこういった主旨のことを つづけて山口昌男は 次のような表現でのべる。

病気は それ自体 人体を通して何ものかが立ち現われる過程であるという意味において 演劇的状況を含む。事実 多くの文化において治癒という行為は儀礼=演劇として演じられる。しかし われわれは こうした病気という形で送られるメッセージが どこで発信されているかということも またそのメッセージを読み取る技術も 充分には開発されていない。あるいは喪失してしまっている。病気は その快・不快はさておき 日常生活では喪われている 何ものかとの対話を再び開始する機会であるともいえよう。
(第八章)

だからわたしたちは もう《儀礼=演劇》の文化を超えてきたのだから 《病気という形で送られるメッセージを 読み取る技術を それとして 開発した》わけではなく しかも 異感人たちの病いが――まづ感性の交通として―-わかるのである。だから《宇宙誌》という必要はなく 《生活誌》なのである。《何ものかとの対話》ではなく――《真理との対話》があるとすれば それでよいわけだが その同じことを―― 目の前の人との対話と言ってはばからないのである。所詮 これしかないし この言動をおこなうべきである。魂の弱い人は このことに 恥づかしがったり おっくうがったり 果ては いつまでも疑いを持ちつづける。現代人は その意味で 話し合いすら 出来ない。まあ たとえば 夜 床に入って眠りにつくとき その日の出来事を振り返ってみて 出発点における自己との対話を――これだけでは 自己回復の準備段階ではあるが それを――持つということになっている。
逆に言うと 社会構造などの広い文脈でこそ 治癒が問題とされるとするなら このような現代人の情況においては 治療の過程は――自己治療である―― 大いに あるかも知れない。われわれは 恐れなくともよいとか あるいは逆に もっと畏れなさいとかと言って 対話をすすめる。

このようにして見るならば 医者と患者は 本来 世界を解読し 真の秩序を探求するという行為の協力者であったということがわかる。
(第八章)

というときの 《医者と患者と》は どちらも同じ自分であるにほかならないと覚るべきだし しかしながら じつは そういった 文化構造の社会有力的な秩序への再発進となるような局面を わたしたちはすでに 超えてきている。《真の秩序》は 個人に発するよりほかないと考えるから 社会有力を基盤とした秩序は 二の次だということで 再発進する。《二の次》という言葉に語弊があるとするなら 相対的だということになる。すなわち 《医者と患者》の一対の関係を 山口も言うようにのり越えて 《

日常生活においても こうした自覚が身につけば 人々は言葉の深みに錘を垂れることができるし 自然の中における肉体の正しい位置をもう一度確かめることができるかも知れない。人体および精神 自然および文化の中に秘められて開発を待っているさまざまな能力・装置が 効用性(* 文化有力)という基準に迷わされることなく われわれの世界の中にもう一度くみこまれるきっかけを掴むかも知れない。
(承前)

もちろんわたしたちは きっかけをつかんでいるから すでに実践ずみだから こうして えらそうに話しているのである。
《世界を解読しうんぬん》ということは 出発点への還帰のことでよい。《宇宙誌》というように 拡げなくてもよい。拡げずにただそういう供犠文化の用語を使わなくともよい。シャーマニスムによる医術のことを山口が 説明の便宜としてでも積極的に 持ち出すことが もう旧いものと思われる。

〔ブラジルのマクンバの祭祀では〕壊れてしまった患者の心理的宇宙を もっと広大な聖者信仰と憑依の技術に導くことによって 回復させる祈祷師の役割が示される。いうまでもなくこうした治癒は 近代の医学が精神療法を除いては放擲してしまった試みである。しかし こうした演劇的対話と憑依による人格の再統一は 人間が演劇的に生きることのできる場をいたるところで喪失してしまった今日 病いを媒介としてでも回復せざるを得ない方向になりつつあるのである。
(第六章)

タカマノハラ神話理論を肯定するような言動であるが 類型的には われわれも われわれの思想をタカマノハラ理論で説明することはあるのだから 山口がここで言おうとするところは 方向性として わかるのである。ただし いまは もう 《心理的宇宙 いや ふつうにいう精神(わたし)を回復した》あと どう現代に踏み出すかの議論なのだから 《演劇=儀礼》は それとして旧い過去のわれわれの一つの養育掛かりであった。近代の医学をそのまま信奉せよというわけではなく これを発達させたときの近代人たちの思想的な出発点 歴史経験的には踏み出しの地点 これは 今でも有効であると思われ 供犠制度の養育係りを 超えてきた。精神の方面に限れば この医学の出発点は もうその医学は要らないとわかったそのことである。祈祷師の医術は要らないと――長いあいだ ごくろうさんでしたと―― わかったことであり そののち 精神医学がおこったとしても これはすでに 入り口が即 出口であるところの学問である。その療法としていま一つの新しい養育係りの役割をになっている事実がるとしてもであろう。それは おそらく ただの友だち・仲間とsての役割なのであろう。
もちろん 具体的な踏み出しの社会総合的な積み重ねの結果 なお文化有力としての供犠構造を残して持つにいたったとも 考えてきた。医学においても 犠牲のうえに発達するという文化構造を どこかで 持っている。われわれは 新しい踏み出しにあたって 知恵を出し合っていくべきであるが そして今のそのような供犠文化の構造的な側面を解明するために 昔の文化形態を歴史的に研究することは 必要かつ有益であるが 戻っていくということも 具合がわるい。また山口も 昔に帰れと言っているのではないのだろうから しかも いまだに 近代人の出発点を もういちど模索するというだけの議論では なかなか前へ進まないと思うのである。新しい未来人の出発点をこそ打ち出そうとしていると言うのかも知れない。が それはまだ 表現が与えられていないように思われる。
(1)大昔のシャーマニスム思想も 現代人であるわれわれにとって有益であるこれこれの意義を持ったものであった。(2)すなわち 現代人の直接の出発点であった近代人の思想と そのシャーマニスムなどは これこれの関係を持っている。(3)ゆえに われわれ現代人は 新たな踏み出しにあたって これこれの方向を取ることができるうんぬん。こういったことがらを明らかにして 現代思想の充分条件を満たすことができる。シャーマニスムのよいところを それがあるなら 今にも 部分的に取り入れるというのなら その基本出発点は 現代人=近代人のものである。(このかんたんなことが あいまいにされている)。
(つづく→2008-02-07 - caguirofie080207)