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哲学いろいろ

《わたし》

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《仏性》もしくは《神の霊》をやどす。空性ないし神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。


 2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツワリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。


 3. われに立ち還るというのは 自己還帰とか自己到来とも呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば: 

  (α) わたしは わたしである。 1=1


 4. そして立ち還るときの姿としては:

  (β) わたしは 《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1


 5. 人はみづからのウソからわれに還り 他人(ひと)のイツワリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己の二乗を繰り返し《わたし》を生きる:

  (γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。 1^n=1


 6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たものでもない。つまり人間なる存在にとって 所与の条件である。
 この条件を受け容れることが 自己の内なる仏性ないし神の霊にめざめることである。そのときわたしは 仏性につうじている空性ないし神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここで《非思考の庭》が成る。


 7.  非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが もし
     
  ▲ 欲望(意志の信仰)

 というのであれば それは (β)および(γ)における意志行為が その基本であり中軸を成す。花が咲き実が成るという場合も 中核は (α)の《わたしはわたしである》その動態にある。


 8. あとは この世の中のシガラミであり よく言えば飾りや誉れであったり よくもわるくも自己の心の充足である。これは 空であるが 仮りのものごととして確かに現象している。


 9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては 空とは言えない。
 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。


 10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。
 ここに(α)の《わたし》にそなわる仏性は 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛》という言葉でも説明される。

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