caguirofie

哲学いろいろ

《意識》とは何かから考え始めます。

1. 意識とは わたしにまつわるものごとのすべてについて わたし
が あらためて心に思う(確認する)ときの思いのことです。
2. 机の角に足をぶつけて 痛いっ! というとき:

? 痛みそのものは 感性(痛覚)であり 知覚そのものです。

? これを《痛い》という言葉で捉えるのは そういう概念認識です。

? ?の痛さそのものや?の痛いという認識内容を あらためて心に思
 うこと これが 意識です。

3. 意識の対象は すでに《わたしにまつわって起きているものごと》
です。現実のものごとの意識 あるいは 意識された現実とも呼ばれま
す。




4. 意識にのぼせないものごと(対象となり得るものごと)は もち
ろん 《意識していない(意識下)》です。一般に――すでに記憶のア
ーカイヴには収められていますから―― 潜在意識のことです。


5. ふつう《無意識》というのは 《意識していないこと》であり
具体的に《無意識に》という表現は 《ふと思わず》とか《意図せず》
などと表現する場合と同じく 意識下にあるものごとがそのまま現われ
る(潜在意識が顕在化する)ときに用いるはずです。


6. ところが 精神分析では 脳内の神経組織にこの《無意識》とよ
ぶ独立した部位があるのだと仮説します。

7. 《エス(=英語 it :それ・あれ)ないしリビドー》として独・立
・し・たハタラキを持つと言うわけのようです。

8. 乱暴に言ってしまえば 《性的欲求ないし欲望 あるいは 性的
衝動》が ムイシキなる脳内組織の独自のハタラキとして 起きるのだ
と。

9. わたしたちは何だか分からないものを――《それ》ではなく――
《あれ。あれだ あれ》と言うことがありますが この・不意の出来事
に際して《あれえーっ》と言う場合にも用いられる《あれ=エス》が
われわれの思いや意志にかかわりなく勝手に はたらくのだと。

10. 過去の歴史(人生)において抑圧されていたもの(そうしてム
イシキなる部位を刺激する何ものか経験したこと) これが 現われる
に到るといったかたちで。



11. 記憶にしまわれた何らかの思い――悔しさや無念さやあるいは
あこがれを執念としたような気持ちなどなど――が 何かの拍子に外に
出て来た・・・と見てはダメなのか? 潜在意識が顕在化したと言うだ
けでは済まないのか?

12. という問題だと思います。なぜなら ムイシキと名づける独立
した部位が脳内に存在するとは これまでに実証されていないからです。


13. 不用意に発言しますが アーラヤ識もアマラ識も ムイシキと
同じような仮説です。

14. 《意識》をめぐってですが 自己の意識をしばしば《自我》と
――これは 翻訳語のようです――と呼ぶことがおこなわれています。

15. これは あたらかじめ結論づけますが 《わたしが わたしみ
づからのことを――何かのきっかけを得て――あらためて確かめるよう
にして 思う》ことが 自己意識なわけです。ジガなんて言うから わ
かんなくなってしまいます。



16. まづ(2)を再掲します。:

☆☆(№61) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2. 机の角に足をぶつけて 痛いっ! というとき:

? 痛みそのものは 感性(痛覚)であり 知覚そのものです。

? これを《痛い》という言葉で捉えるのは そういう概念認識です。

? ?の痛さそのものや?の痛いという認識内容を あらためて心に思
 うこと これが 意識です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ ここに 次をおぎないます。

? 痛さやその概念を確認する思いとしての意識を――意識そのものを・
あるいは意識しているわれをわれが――思うという場合の意識 これが 
さらにあります。

17. この?が つまり 自己意識です。《われがわれであると確認
すること》といった内容だと捉えられます。

18. なんでこの《われの自己到来(自己還帰)》を わざわざ《自
我》と呼ばなければならないのか。はっきり言って そのこと自体が 
おかしいし その用語を使っていると 互いに話がおかしくなる。






19. ▲ (ヰキぺ:自我) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

(じが、英語: ego、ドイツ語: das Ich または Ich)とは、哲学および
精神分析学における概念。
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☆ 《イッヒ》とは 英語の《アイ( I )》のことであり 《わたしが》
という意味の語である。《エゴー》は ラテン語ギリシャ語の《わた
しが》である。

20. つまり 自己意識とは やはり《わたし》ないし《わたしなる
もの》のことを言うはずである。

21. ちなみにサンスクリットでは 《アハン( aham )》である。
→アガン→アゴ―→エゴ―といった変化を思えば いわゆるインド・ヨ
ーロッパ語族では みな同じひとつの語である。

22. スぺイン語が《ヨー》と言い イタリヤでは《イーヨ》と言い
フランス人が《ジュ》と言っても ロシア人が《ヤー》と自称してもみ
な 同じ語(エゴ―からの音韻変化)であり 互いにそれぞれ訛ってい
るだけだ。〔語中の -k- / -g- はしばしば落ちます。akitari(飽きたり)
→ aita (飽いた)。kagitari (嗅ぎたり)→ kaida (嗅いだ)〕。

23. すべてただの《わたし〔が〕》という単語である。





24. ▲(前掲ヰキぺ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
§ 1 哲学における自我

哲学における das Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、
批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。
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☆ 《わたし》とは 自我かよ?!?!


25. ▲(承前) 超越論哲学における原理でもある。
☆ それは アートマンと同じような成り立ちだ。アートマンは 《お
のれ( self )》のことである。これが 超越論(形而上学)として の
ちにブディストはそれをブッダターと言いかえたところの《霊我なるア
ートマン》として用いられるかたちである。

26. 《自我》などと言わずに せいぜい――《わたし・われ》が嫌
なら この《アートマン(おのれ)》の例にならって――《自己・自分》
と言えばよろしい。



27. ▲(承前) 初期フィヒテの知識学においては、自我は知的直
観の自己定立作用 (独: Selbstsetzung) であり、哲学の原理であるとと
もに唯一の対象である。
☆ ひとは 《何か知らなかったこと・いささかよくないことを仕出か
したと気づいたときに われに還る》。《知的直観》としての自己還帰
である。

28. 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》わが自由の
あゆみにおけるその気づきの都度の《自己定立作用》とやらだと言うわ
けであるらしい。

29. それは――翻訳をした先生がたにとっては――《自我》だと言
いたいらしい。ふざけんな! と言いたい気持ちをおさえがたくなりま
す。


◆ 末那識 manas-vijñāna

☆ は 英語で言えば  《 mind 》のことです。

五蘊のうちの《色(身)》を除いた《受・想・行・識》のいづれかの《思い・考え》
のことです。

これをわざわざ第六識として立て 末那識と称したのは――たとえば心的現象にかん
する総括的なハタラキを想定したと好意的に解釈したとしても―― 愛嬌でしょう。

身(感性の原野)と心(思考の緑野)の内に おさまります。または 心身を統覚す
るわれのハタラキの内でしょう。



○  mind 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
https://www.etymonline.com/word/mind

PIE root(印欧語語源): *men- (1) "to think,"

 ☆ 語尾の -d は 発音しやすくするために添えたもの。
  cf. son-nare, son (音) → sound

○ *men- (1) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
https://www.etymonline.com/word/*men-?ref=etymon

この推定された〔アステリスクなるシルシ( * )が 推定であることを示します〕
語根《 *men- 》は 次のような各国語を成すと見られています。〔(1)という
のは ほかにも同じ語形で 別の意の語根があるからです〕。

Sanskrit: manas- "mind, spirit,"  matih "thought,"  munih "sage, seer;"

Greek: memona "I yearn, " mania "madness," ・・・
Latin:  mens "mind, understanding, reason,"  memini "I remember,"
   mentio "remembrance;"

Lithuanian: mintis "thought, idea,"
Old Church Slavonic:  mineti "to believe, think,"
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◆ 阿頼耶識
☆ は 《蔵(アーラヤ)》と言うごとく 心的能力について さらに《記憶行為》
を取り立てたものでしょう。

意識・無意識にかかわりなく 記憶です。



◆ 阿摩羅識
☆ は 同じく記憶能力を言うものでしょう。それは 覚えるというよりも その
知覚し認識したものごとを《整序し収める》ハタラキだと見られます。秩序作用で
す。


もし このアマラ( amala :pure, white, clean )識を《無垢識・清浄識》とし
て立てるのであれば つまりは 《自性清浄心》のことであり ブッダター(仏性)
あるいはアートマン(霊我)と同じものです。

つまりそれは 超経験の場に移り 人間の能力を超えた何ものかです。

アマラ識の独自性は――カルト関係でなければ―― ありません。





ちなみに 精神分析が説く《エス・リビドーなる無意識》は――それは 脳細胞と
して他から独立して働くとされているからには そういう部位は脳内に確認されて
いないからには―― SF小説もどきです。哲学ではなく 文学です。

いわゆるムイシキがはたらくと言うのは――それは 潜在意識のことであって――
記憶の倉庫から何かを取り出したときの何らかの現象でしょう。





精神分析への傾倒者が言いました。:おまえは マザコンだな。
わたし:そんなことはないよ。
分析者:いやいや。それは ムイシキのはたらきなので 意識はされていないんだ。
 そうやって否定する応答が何よりの証拠なのだよ。

☆ このオフザケが なおまだ世間に居座ってのように つづいています。



1. 世の中のシガラミというのは 一般的なよい意味でもわるい

意味でも 〔わたしは〕 用いています。

2. いわゆる伝統であり 栄誉をも伴なっており 地位や身分に
つながり そこからおそらく旧習を重んじる場合には その殻を破
りたいと思うようになるマイナスのイメージにもなります。

3. 《わたしがわたしする》というとき 《主語のわたし》は
《われに還る》というときのわれだと思います。

4. 言わば純粋のわれであり このわれは 狭いイメージですが
《動詞のわたし》となるとき むしろ世間のシガラミをおのれの内
に包み込みます。

5. 《アース役》です。

6. そして 人びとの自由を阻もうとするふるい(社会的によく
ない)シガラミを アース役として吸収するときには 言わばゴミ
処理かつ再生工場のごとくはたらくことになります。

7. もし 白紙のわれが自由であって そのチカラを発揮するこ
とが出来るとするならば です。

8. 同じくこの白紙のわれは 栄誉や地位をも包み込みます。そ
れらから自由になるために。

9. 一たん包み込んだ身分的地位なるわれを 白紙のわれは己れ
からむしろ解放するということになるでしょうか。

10. 自由とは 栄誉と塵埃とのいづれからも自由になるわれの
生きるさまなり。