caguirofie

哲学いろいろ

芸術とは

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

芸術の定義

ぶらじゅろんぬ流の定義です。長くなっちゃった。


エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 
その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していた
ので 言ってみればまだ〔心の表わし方は〕まっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは
限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

(前もって言えば このウソを虚構として用いるのが 芸術とい
う表現行為である)。

そういう意味でも 表現は自由なのだ。100%以上の自由度を
人間は持つ。

このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そうい
う振る舞いにそれぞれが――むやみやたらにではないが――自由
に及ぶこととなった。



ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。
人びとの社会における生活にとってその意志疎通の必要が現われ
たとも言い得る。
やがてその言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐
に遭い 難破することも生じ得るようになった。



こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえ
ば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。
――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。ウソ
は困るのだと。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。
あやまちに気づいたなら われに還る。ゆえ。

ひとは われがわれに還ったそのわれをあざむくことは出来ない。
言いかえると われが存在していなければ 他人がわれをあざむ
くことは出来ない。あざむかれたなら われが存在していたから
である。

そこには 生まれつきそなわった自由意志とそのウソをつく自由
度をふくむ自由がある。

したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容につい
ての答責性(説明責任)を帯びることになった。
みづからの自己表現には 責任を持てと。


 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経
験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダ
ー(仏性)ともあるいはプネウマ(神の霊)とも言った。その自
由のみなもとを言ったのである。

このように哲学を超えたところ(場・チカラ)は 非思考として
《信仰》と呼ばれる。




この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に
非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえ
て言い表わすことが起こる。たとえば:

  神の霊の宿ると言われるわが身とわが心において そのゆが
  みの無い自由に従っているならば――つまりは へそを曲げ
  ウソをつくことはあるのではあるが これをあやまちとして
  気づくときそのみづみづしい自由に留まるならば―― ひと
  は ひとを殺すこともなければ むさぼることも裏切ること
  もなかろう。

といった観想・理論を得る。

この理論を どう思ったか 《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼ
るなかれ(?)・姦淫するなかれ(不邪淫戒)》といった戒律と
してまた道徳規範として 神の霊とその自由に代えて崇拝するや
からが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)としまたオシへとして説
き始めたのが《宗教》である。



一般に集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこし
らえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自
由を捌(さば)こうと言うのだ。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり 
それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺か
れるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあや
まちを繰り広げるようになる。

宗教は 個人の信仰の自殺行為である。他宗を邪宗としてころそ
うとまでする。この排他性は治るものだろうか。



《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。
それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そし
て中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域
として分立しうると考えられるからである。

あるいは だれの思考や行為であるかにかかわらず 誰もがひと
しく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば こ
の世界をもっぱら扱う分野ができる。それは 自然科学という領
域である。



さて《芸術》は――初めからの《自己表出および自己表現》の筋
道にあって―― これら哲学か信仰か宗教かあるいはもろもろの
科学にかんする定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってリ
セットしたその上で まったく自由に表現の自由を追求する人間
の意志による表現行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。
言葉に限らない場合は とうぜん感性の世界となる。

哲学に通じる人間の真実――あるいは 科学の問い求める経験的
な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいもの
だと言われる。

一般に 真・善・美が同じひとつのもの(非思考のナゾ)の三つ
の貌として捉えられる。
真(わが信仰と哲学・科学)と善(ゆがみ無き自由とその倫理現
実)とそして美(真や善が感性の世界と呼応すると見られたとき
のそのよさ)の三つは 互いに一致すると受け留められている。

芸術は その煮詰めたところにおいては:
▲ 科学と対立
☆ は しないと思われる。

表現手段としては ウソを想像の世界における虚構としてかたち
づくっている。なおかつその目指すところは 異なっていない。
同じ道をあるいている。

その志向性が どうでもよく滅茶苦茶である芸術は まさにどう
でもよいものであり ニセモノであると見られる。