caguirofie

哲学いろいろ

《存在》

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

bragelone

【Q:誰か「存在」を定義して頂けませんか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8971773.html

 1. 《存在》とは何かについては おそらく人間という存在にかんして人間の側からどう捉えるかを語るしかないように思われます。

 2. ヘーゲルの次の命題は いい定義ではないかと考えます。

 ◆ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) 〜〜〜〜〜〜〜〜

 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 
 どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
 ないしはこれを 我慢できないであろうが 
 この矛盾を持ちこたえることができるのが 
 人格(* ――もしくはふつうに《人間存在》――)の高さである。
  (『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
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 3. つまりその《あたかも時間の高さ》を容れた時間的なるものが 人間です。

 4. 存在をいわゆる実存としてみれば もうそれでおしまいです。

 5. もし存在を広義の用語とすれば それは狭義の存在とそして存在する者とに分けられます。それらふたつは ヘーゲルの《無限なものと有限なもの》にそれぞれ対応します。

 6. ただし ヘーゲルに従えば 人間は《無限なもの(狭義の存在)と有限なもの(存在者)との――矛盾を容れつつも―― 一体なる〈わたし〉》であるようですから 言わばまぼろしの《存在》なる概念を切り離して必要以上に追い求めることもないはずです。





 7. 世界が観測と認識によってあたかも存在すると見るばあい それでもその観測し認識する行為の主体は 誰か? という問題がのこります。

 8. 認識する能力とその主体 あるいは 認識するわれと対象との関係 これは すでに世界の一部を成しているのであるが どのように存在するように成ったか? という問題です。

 9. つまりそのように問題がのこりナゾをみちびき出すとしたら 自然科学の知力にとっても けっきょく《有限なもの‐無限なもの》という矛盾をはらむ一体性が当てはまります。ナゾが 無限なもの――狭義の存在――になるはずです。

 10. 無限なものなどは 無い。無である。という見解があったとすれば そのような存在論も まったく同じくヘーゲルの存在観の内に含まれます。

  《有限なもの ‐ 無限なもの(有る無限 または 無い無限)》としての矛盾かつ一体性

 という大きな存在観です。無限が有るか無いか これは 人間には決められません。(しかも・あるいはそれゆえ 主観としては 自由にどちらかを――そうしようと思えば――選べることになっています)。






 11. ★ 例えば酸素分子は存在するのか? 鎌やスコップは存在するか? 動物は、人間は存在するか? / 宇宙は存在するのか?
 ☆ 人間以外のそれとしての存在については 人間がみんなでともに世界にまなびつつ修正しつつ規定する内容として捉えて行くよりほかに仕方がないように思います。

 12. ★ 精神は存在するのか?
 ☆ 人間は 身と心(身体と精神)とをそなえて生まれてくる実存です。精神が精神するかたちで いまこのように議論しているような存在論をいろいろに模索しています。

 13. この人間観にもとづくかぎりでは 《性質》とは この精神が勤勉であったり怠惰であったりするクセのことを言うのが ふつうだと思います。精神のクセや特徴というのではなく 《性質》をほとんど存在と肩を並べる概念として推し出すあたらしい理論ということであれば しっかりとした定義とその理論説明が必要であると思います。

ねむりねこ 2015/05/11 20:17

☆ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は
◇果たして、無限と有限は矛盾するものなのか?
☆ *bragelone

 あぁ。表現がまづかったみたいですね。
 言いたいことは 《人間は移ろい行きいづれ朽ちるものである。のに 〈不老不死〉とか〈永遠の生〉とかと言っている。概念としては 〈無限〉がある。これは ちょっとおかしいよね。矛盾がある》くらいなことを言っているのだと思います。

たとえば、
0 ≦ x ≦ 1
というような有限の長さ―――1という有限の長さをもつ、そのように数学で規定される―――をもつ数直線(実数ですね)というものがありますよね。
しかし、この長さ1という線分には無限個の点がある。
 ―――この個数は、自然数有理数の無限個アレフ・ゼロより多い、大きいアレフという濃度!! 無理数有理数の無限の程度の違いは、例のカントール対角線論法(ポリポリ)―――
☆ bragelone

 これは ですから 《 0 ≦ x ≦ 1 というような有限の長さ》と比べるのは その中にある《無限個の点》とではなく 人間の生を超えた《無限》だと思います。


そして、「長さ」を数学的にきちんと定義、規定するには、
極限、つまり、無限(分割)を必要とする。


もちろん、「長さ1」というものがアプリオリに存在している
―――神さまが与えたもうた!!―――
なんて考えれば話は違ったものになるのでしょうけれど、
それは少し虫が好すぎる(笑い)。
リンゴが1個、2個というのと、「長さ(体積)」は概念のレベルが違う。


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自然数を神が作り給うた。ほかのものはすべて人間のこしらえごとだ。- レオポルト・クロネッカー、1883年。
"Die ganzen Zahlen hat der liebe Gott geschaffen, alles andere ist Menschenwerk." - Leopold Kronecker, 1883

http://ja.wikiquote.org/wiki/%E7%A5%9E
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☆ bragelone

 あぁ。だとしますと――根っから文系のわたしにとっては―― その自然数というのは 人間もしくはわたしを数として一とすることから発生している。なぜ《一》かは おそらく自由意志ということに行き着く。二人や三人があつまって共同の決断をしてひとつの意志表明をしたとしても その意志決定は けっきょく一人ひとりがその自由意志でおこなったということになっている。ゆえだと思うのです。


 《自由》は 神すなわち無限との関係において捉えることによって初めて生まれるものと思われるからです。《有限一途の世界 あるいは要するに相対性のみの世界》にあっては 《自由》は問題にならないものと考えられます。ただただ声の大きい者が勝ちとなって 判断基準のないかたちでチカラが発揮されるようなのっぺらぼうの世界――どう・どっちに転ぶかまったく分からないような社会力学の混沌の世界――にしかならないと見られます。


☆どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
◇たぶん、自然はその体系の中に無限を持っているんだろう・・・、という気がしますね。
露(あら)わな形としてではなく、それを内在しているんじゃないか。
「秘めている」と言った方がいいのかもしれませんが。
構造的に有しているのだと思う。
無限と有限は矛盾するのではなく、人間の分析的な見方によって初めて自然から切り離され、人工的な無限、有限というものになるんじゃないか。
☆ bragelone

 これは ヘーゲルの舌足らずですね。
 言おうとしたことは:《どんな自然奔放な生活態度において自分が時間的な生き物であるとまだ自覚し得ないでいる自然的な者》は 《無限》と言われても何なんだ それ? とか言ったり あるいはその無限という概念を理解した場合には それでも そんな七面倒なものは どうでもよいわいと言ったりして 《我慢できない》といった場合があるのではないかと。

 《無限を内在している》と ヘーゲルも思っているはずです。あるいはつまりカントの《物自体》をこの《無限なもの》というふうに言いかえて しかもこれを確かに《有限なもの》との一体性と言うまでに《構造化》して捉えているからには。
 《自性清浄心》でマチガイないと思います。

先に、有限の長さを有する線分を例に取りましたけれども、
有限(の長さ)と言っても、○○の観点からすると有限である、と言っているに過ぎず、、
別の△△の観点からすれば、無限(連続と言った方が言いのだろう)ということはあり得るわけであり、
この二つは矛盾していない。
「○○の観点」、「△△の観点」の○○、△△を抜いて同一平面上でこれらを語ろうとするから、奇妙に見えたり、思えたりすることはよくある。


こと無限を扱う場合は、もっと慎重になる必要があるんだろう。
☆ bragelone

 それは 数学の問題なのでしょうね。


☆ 6. ただし ヘーゲルに従えば 人間は《無限なもの(狭義の存在)と有限なもの(存在者)との――矛盾を容れつつも―― 一体なる〈わたし〉》であるようですから 言わばまぼろしの《存在》なる概念を切り離して必要以上に追い求めることもないはずです。
◇自身が《制約された》存在である、
神のような全知全能的な無制約者(?)―――神さまだって、実は、何かに制約されているかもしれない(ポリポリ)―――ではない、
という気づきから、
有限者の悲しみは生まれるんじゃないですかね。
☆ bagelone

 ただし 無限者(無制約者)にとっては しあわせも楽しみも単調ですよね。
 だから その単調さを 人間には味わわせようとは思わなかった。のかも。

実家に帰っている間、黒芝(生後9ヶ月)とずっと遊んでいたけれど、
この黒芝に有限者、制約者としての悲しみを感じているようには見受けられなかった(笑)。
心行くまでネムネコの手と腕を齧り、実に幸せそうであった。
仰向けにひっくり返り、お腹を見せた状態で、前脚でネムネコの右手をしっかりと抱えて、無心に齧っていた(笑)。
生の喜びを全身で表現していた。
少なくとも、この時の黒芝にとって、ネムネコの手は宇宙すべてに匹敵する存在だったに違いない。
☆ bragelone

 これはまた ですから 人間の位置するところが 絶妙。・・・
 神と黒芝とのあいだの具合いのよい位置。

☆ 7. 世界が観測と認識によってあたかも存在すると見るばあい それでもその観測し認識する行為の主体は 誰か? という問題がのこります。
◇黒芝です。
そして、この時、黒芝とネムネコは不可分の関係にある。
黒芝にとっての世界は、ネムネコの右手に収斂され、
また、
同時に、齧られるネムネコも世界は黒芝に収斂されている。
☆ bragelone

 まぁ そのこともどのこともみんな神とか呼ぶ者は 知っているとかどうとか。
 ――ちょっと まとめすぎになっちゃったみたい。

これと同じように、何かに熱中しているとき、
完全ではないけれど、
我々は、物理的な空間、時間(客観的な空間、時間)という制約から自由になっているのではないか。
黒芝⇔ネムネコという、他の世界から切り離された極めて小さな世界でありながら、世界から切り離された極小の世界を通じて世界と結びついているんじゃないか。
この時、いわゆる客観的な世界などは、あまり意味を有さない。
熱中するあまり黒芝が本気で噛み、ネムネコに「痛いじゃないか」という思いを与え、こちらの世界に引き戻さないかぎり、ネムネコは世界を忘れている(ポリポリ)。
齧っている黒芝こそが世界(笑)。


もちろん、この間も、ネムネコは消滅していない。
ただ、判断の多くを黒芝(世界)に委ねているだけですがね。
☆ bragelone

 ・・・。

 あっ あった。ご返杯が。
 つまり そこへやっぱりヤマイタチ(オコジョって言うんですか。知らなかった)が闖入して来るのですよ 現実は。へっへっ。