caguirofie

哲学いろいろ

ひとのみち

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

plapota 2014/10/28 23:41

科学と宗教に関しては、人の道さんの見解がおもしろいのですけれど。

bragelone 2014/10/28 23:47

ひとのみちくんについては いまの【Q:神は信じるものではなく 感じるもの】でのわたしとのやり取り(註1)を見てください。

かれは 小学生だとわたしは見なしています。よ。

plapota 2014/10/30 02:50

小学生とみなされてをるとはいへ、劣勢は挽回してくださいませ。

bragelone 2014/10/30 09:28

小学生は 《思考(考える)・知覚(感じる)》と《非思考(信じる)》との区別が出来ないようです。

それゆえ《劣勢》に甘んじなければならないという情況をも引き受けています。(註2

plapota 2014/10/30 10:46

小学生に敗れてはなりませぬ。
勝ち負けの区別もままならぬ幼稚園児に甘んじてはなりませぬ。
このままでは、まけをみとめることになりましょう。
議論の内容をまちがへてゐませんか。
此処は、なんとしてももちなほしてくださいませ。

bragelone 2014/10/30 13:10

 小学生だと分かった時点で もう勝負はつきました。

 無理が通れば道理が引っ込みます。

 10月28日のほうへ引っ越します。

bragelone

ねむねこさんが 応援にかけつけてくれたのですが やはり暖簾に腕押し 蛙の面に小便だったようです。
=◇(回答№7)
◆(そのお礼欄)

アルケーの神を知ることによって、我々は我々自身と宇宙についての深い理解が得られるのである。
これが真理の探求である。
真理の探求は無意味なことではない。
真理の探求はどうでもいいことではない。
真理の探求は人を人たらしめる最も尊い行いである。 

☆ これでは あたかも《ぼくのお父さんは ぼくのお父さんです。ぼくの好きなお父さんは お仕事をして偉いお父さんです。ぼくにやさしいお父さんは 世界一のお父さんです》と書いた絵日記にひとしい。
 

いづれにしましても いま現在の回答№10への答え方で 或る程度コトが決まって来るかも分かりません。

plapota 2014/10/30 17:12

信の領域は、分けるべしとして素直に思へば、非思考の庭が、幼稚園に思へます。
ぶらげろさんは、このままでは、
大丈夫では、なささうなのですけれど。
空拳の反論もできづにいるよふで、人の道さんのおもしろさにまけてしまつています。

bragelone

非思考の庭についてと《おもしろさに負けてしまっていること》についてと ふたつとも 
【Q:《非在》なる神をどうして・・・】という質問で対処しました。

幼稚園よりさらに前の《聖なるあまえ》の問題ですから 幼稚園と感じられても構わないでしょう。
ものごころが着いてからは この聖なるあまえは 《きよらかなおそれ》に移行します。
知性を多少ともおびる《さかしら》ゆえに 《あまえ》にも《おそれ》が現われます。


 それにしても いま現在も №10回答への応答はありません。

plapota 2014/10/30 17:55

勝負がつき、ざんねんです。
幼稚園以前では、絵日記もかけず、母子家庭の乳児になってしまいます。
まちがへてゐませんか。
《さかしら》のサンタさんは、いないようなものとされ、未解決のままです。

bragelone

ん? 勝負がついたというのは どこでですか? 
つまり こちらではついていますが 双方ともがみとめたときに 最終の勝負です。


ですから 非思考の庭は 思考にあらずですから 絵日記の文章も絵もなくてかまいません。
《乳児》でよいのですが だからと言って《母子家庭》であるとは限りませんよ。

《サンタクロース》は この場合 関係して来ません。さかしらは ものごころがついた人すべてに当てはまる問題です。

plapota 2014/10/30 18:13

乳幼児・再婚・母子家庭の長男があまのじゃくで、
それもちがふ、あれもちがふ、ぜんぜんちがふの非在の神を信ぜよでは、
勝負になりませぬ。商売のサンタが《さかしら》の相場です。

bragelone

さかしらで負けたのなら かまわない。と言って行くことにしましょう。

plapota 2014/10/30 18:26

??????
商売相手のサンタさんと再婚を夢見る母子家庭を
いいやうに解釈する、といふ意味ですか。

bragelone

ちょっと 意味が・・・。
どうして母子家庭がここに出て来るのかが分かりません。
個人一人ひとりの問題です。信仰は。

plapota 2014/10/30 18:32

あ、はい。サンタさまに無視されているといふことですね!
ありがたうございました。お気遣ひ感謝してをります。

bragelone

いや サンタクロースがどうして出て来るかも分かりません。
おもしろさの要素に必要だということなのでしょうか?

それなら もう初めに負けている。でよいと思います。

そもそも哲学の議論ですよ。



註1

ANo.4 bragelonne

 こんにちは。


 ★ 神は感じるものである
 ☆ この《万物の根源、宇宙の法則、アルケー》なる神を感じたときには どんな感じでしたか?

 ことばで表わすことは出来ますか? 




 

 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった対話があります。

 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。

 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。

 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?



 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。

 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》こともおこなう。


 《非在》とは 何のことか?
 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?


 あるいは逆に《宇宙の法則》とは 何か?
 それは 感じることが出来るとおっしゃる。どういう感じなのか?
 その感じを悟性で認識して言葉に表わすことは出来るか?
 その言葉をつかって考えることが出来るのか? (ふつうは 出来る)。


 《宇宙の根源》とは 自然科学の探究するところではないのか? 
 なるほど《感じる・考える》ものである。




 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。

 宇宙の法則――たとえば勝手に解釈すれば 因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

 この宇宙の法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。
 あるいは ○○さんであって 同時に△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。


 《非在》という想定は 何を言おうとしているのか?
 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?

 ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。ここにもあれば 同時にあそこにもある。という存在(つまり非存在)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。



 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。


 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。
 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。分かったと宣言する人が出て来ても ほかのひとにおいても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから ある程度の人数の《崇拝者》が出る余地がある)。

 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。
 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。

 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じない・すなわち《無い神を信じる》と言う。
 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。

投稿日時 - 2014-10-28 10:24:15

お礼

 

> 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じない・すなわち《無い神を信じる》と言う。
 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。


正しくはこうです。
「有神論は神の存在を信じ、無神論は神の存在を信じない」です。
《無い神を信じる》は日本語として間違いである。
これは単なる言葉の荒らしに過ぎない。

ではアルケーの神についてはどうか。
人の道においては神は間違いなく存在します。
その神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神です。
そして宇宙の法則の存在を実感することにより神は存在すると結論できるのです。
実感とはこの世界のあらゆる出来事は宇宙の法則に従い寸分の狂いもなく営まれていると実感することです。
神を感じるとはこのようなことです。
 

投稿日時 - 2014-10-28 19:06:47

ひと言コメント

★ 人の道においては神は間違いなく存在します。
☆ これが 小学生の言い張る意見の典型です。

註2

現在到って来ている地点

ANo.10 bragelonne
 ★ (No.9お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 宇宙の法則について確かなことはある。
 それは宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であるということである。
 我々が経験する全ての物事、全ての現象は変わりゆくものであり唯一の例外を除いて永遠不変ではない。
 その唯一の例外とは宇宙の法則である。
 宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限である。
 それ故に宇宙の法則は神なのであり、また宇宙の法則を除いて神は存在しないし、また存在し得ないのである。
 それがつまり万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神である。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ ふたつの問題。

 1. 神を《アルケーの神》と呼ぶのは 問題がない。たとえばあなたの嫌いなアッラーフ(もっともこれは神という意味の言葉であるが)やヤハヱーと名づけても そのことには問題がないのと同じである。

 けれども その名が――つまり神のその名が―― ただひとつ神の呼び名であって ほかにはないと決めつけるのは 人間の成すところではありません。それは 創価学会日蓮やほかの決めつけ新興宗教と同じです。どうか 目をさましてください。

 2. 神の説明で けっきょく《宇宙の法則は宇宙の法則である》《唯一絶対は唯一絶対である》《永遠不変は永遠不変である》《神は神である》と繰り返し述べているに過ぎません。

 あとの三つにかんしては それなりに自同律としての意味はあります。《わたしはわたしである》という自己了解するときの現実性が この神とわれとの関係を述べることで やはり確認されるという意味があるからです。人間の存在という有限性とそして神についての無限性との関係が 現実に意味を持つと考えられます。

 ただし 《宇宙の法則》については あいまいなままです。宇宙の法則を感じるから宇宙の法則であるとか 宇宙の法則はマチガイのないものだから 宇宙の法則であると言っているに過ぎません。どうかそこのところも 理解してください。

 


 これら二点の問題をクリアして ほかの神学よりもさらに妥当な説明を提示することができたなら そのおっしゃるところのアルケーの神を みなが内に省みることになりましょう。

投稿日時 - 2014-10-29 11:06:23