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哲学いろいろ

宮本久雄:神名・差異化・他者・ハーヤー

http://jsmp.jpn.org/jsmp_wp/wp-content/uploads/smt/vol44/125-134_Sym-miyamoto.pdf


bragelone:宮本久雄の神論について (1)


哲学として 無理だと考えます。
神学としては 専門家のあいだで独自に批評を受けるでしょう。


▲ アウシュヴィッツの絶望に応ええなかった「神」(p.126)
☆ という判断は あくまで人間のものです。その嘆きが 神に届いているかも
知れませんが 届いたからどうなる・こうなると考えるのは やはりまた人間の
思考になります。自由ですが そこまでです。


神は神です。


さもなければ 神を
▲ 我有(p.131)
☆ することになります。


▲ ハーヤーの根源的自己肯定と他者への開放を拒否し, 自らの表象的思惟
や自存の努力の下に一切の差異化を回収して自問的系として支配する閉ざし
こそ, 根源悪と考えられる(p.132)
☆ よく分析しており考えさせられますが 《根源的自己肯定》を神論とし
て語っている限りで それを無と見る無神論は 有神論と同等にあり得ます。


宮本・神論(承前)


ハーヤ―存在論としてなら ここの場合としては 《こころの明け》とひと言
言えばよいと考えます。


しかも――ひと言多くてよいものならば―― 思考の緑野においての《明け》
と言うよりは 非思考の庭が それ自体《明け》なので その庭を《閉じてい
ない》状態を言うといえるはずです。


能天気になることだと思います。


▲ 神存在が永遠不動な第一実体でなく, ハーヤー・ケノーシス的自己差異化・
他者のカイロス的差異化の系譜で理解されるとき(p.133)
☆ 《実体》というとき それは絶対・無限・永遠なのですから そのみづか
らの内に 相対世界における《有る無しや 因果の過程や 個性や性差などの
差異としての多様性 およびそれをまとめる調和力》をもそなえています。


人間にあっては 自然本性+α としての《心の明け》なる――人間を超えた――
チカラです。


宮本・神論(その三)


▲ このエチカの体現者はハーヤーの体現者としてそのような隣人との邂逅を,
支配的文明文化の辺境に求めて旅する者・homo viator のすがたをとる(p.133)
☆ たぶん 《こころの明け――能天気――》なヤツは 求めなくても 世間
から周縁に追いやられます。


ことさら 辺境を求めることもなく そこだけを旅することもないと考えます。
わたしたちは 《権力を回避せよというわけではない》(アウグスティヌス)。


▲ ハーヤー的言語論に言及すれば, それは隣人・他者に直に邂逅するカ働性を
秘めた言葉といえよう. その一例として, 記述的で事後的な学的説明言語(*=ア
マテラス語)に対して差異化される情態的遂行的言語あるいは親愛の言葉が挙げ
られよう. (p.133)
☆ たぶん 《 A 科学・人格語 ‐ S 人間語》の連関する構造的な言葉に成るは
ずです。