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哲学いろいろ


連続体仮説:ネコ様およびbragelone様へ by ddtddtddt (2017-06-28 19:18)

 現在の無限集合論については、brageloneさんとかなりの回数話しました(主に対角線論法)。その結果は、現在の無限集合論は認識論的にも怪しくトリッキーで、存在論的には全く駄目じゃないか?、という点で意見が一致してると思ってます。

 それは「神の補助線」のように、本当は本物じゃないと知りつつ、導きの糸かガイドラインのようにして「使う」べきものと。

 その時は話題にならなかった連続体仮説ですが、自分にとってそれは、とても魅力的な状況です。数学者の端くれとして(と自分で思ってるだけ(^^;))。

 対角線論法のところで言いましたが、対角線論法では、実数全体の個数と、区間[0,1]に含まれる実数の個数が等しいと考えられる事(あくまで考えられる、だけ)を示した後に、区間[0,1]の実数の個数が可算無限(自然数の個数)なら、矛盾が起きる事を示します。その時に取られる実数の表現手段が、次です。
  0.a1 a2 a3 ・・・

 ここでa1,a2,a3,・・・は0~9数字。anの桁数は可算無限。要するに実数の無限小数展開です。よって区間[0,1]の実数の個数はベタに数えると、可算無限の個数をβで表す事にして、10^βという事になります。これが実数全体の個数です。

 ※本当は可算無限の「個数」とか、言っちゃいけません(^^;)。

 もちろん10^βという個数は、実数の10進展開を使った場合の結果です。でも実数の展開は、2進展開も8進展開も・・・m進展開も可能です。

 ※1進展開はありません。全てが等しくなるので。

 ところで現行の無限集合論(以下、標準理論)の一般定理から、

  2^β=8^β=・・・=m^β

となります。つまり実数全体の個数は、何進展開を使おうと同じなんですよ。そうなると俄然、2^βという表現に注目したくなります。

 集合Aの要素個数がnの時(無限でもかまわない)、標準理論の一般定理からAの部分集合全体の数は、2^nである事を導けます。

 そしてnが無限の場合、2つの無限が等しいかそうでないかは非常に微妙な話になるのですが、再び標準理論の一般定理からn<2^nは、確実に言えます。

 よって自然数全体の個数をβとすると、実数全体の個数2^βは確実にβ<2^βです。

 対角線論法とこの結論との違いは、対角線論法では「実数は自然数より、少なくとも一個多い」としか言えなかったのに対して、2^β/β=∞と言える点です。2^βの事を連続無限と言い、cで表します。

 ※無限大どうしの「割り算」も、本当はやっちゃいけません(^^;)。

 可算無限を考えてみましょう。可算無限とは、有限全体の事です(代表は自然数全体の集合)。では有限と可算無限の間に、有限<亜可算無限<可算無限となる、亜可算無限なんてあるでしょうか?。ないですよね?。

 それは自然数の構成の仕方そのものに根拠があります。人間はそうなるように、自然数を作ったんですよ(ペアノの公理系)。そしてそれは自然数なので(有限の世界なので)、「指折り数える事」によって現実として検証可能なものです。

 ただしそれは算術か算数の分野に入り、数学には入りません。だから誰も証明しようとはしないのですが、じつはヒルベルトの24の数学問題に、「算術の数学化」ってのがあったりするんですよね(^^;)。

 そういう訳で連続体仮説は、cとβの間に「亜連続無限があるのか?」という話しです。従ってそれは、実数の構成法そのものに関わってきます。

 実数の構成法は、無限小数展開に決まってます。人間はそうやって実数を作ったんです。

 ネコさんならご存知かも知れないと思いますが、これは「同値なコーシー列の同値類を一つの実数と同一視する」というコーシーの実数構成法そのもです。そしてこれとデテキントの切断法が論理的に同等である事は、数学的に示す事ができます。

 なのでそう考えると、「連続体仮説の成立」は明らかだと思えます。だって人間は、「そうやって」実数を作ったんだから。しかしこれは、「指折り数えて」実証できません。

 何故なら無限小数展開の桁数nは可算無限で、最初から「指折り数えて実証できる範囲」を超えているからです。

 整理すると、自分は認識論的には「連続体仮説の証明」はすぐに出せます。「人間はそうやって実数を作った」と言えばいいだけだからです。

 しかし実在論的にはできません。何故なら、いくら「人間はそうやって実数を作った」ところで、「亜連続無限はない」なんて一言も言えないからです。自然は「そうなのかも知れない・・・」からです。かつ無限が相手である以上、原理的に実証実験は不可能です。

 そこがたぶん悩みの種なんですよ。実践的な数学者はそんな事、気にもしませんが。だってやるべき事は、ほかにもっとあるんだもの。でも時々は、考えてみるべきだと思う。数学者を自称するなら(^^;)。

by ddtddtddt (2017-06-28 19:18)

ででてx3さん。 by bragelone (2017-06-29 00:05)

▲(ヰキぺ) 現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。
☆ に対して:
◆  整理すると、自分は認識論的には「連続体仮説の証明」はすぐに出せます。「人間はそうやって実数を作った」と言えばいいだけだからです。
☆ というあたらしい説なんですね。

理解するために まづ次のくだりが 坐り心地がよくないので 問います。二点です。

◆ 何故なら無限小数展開の桁数nは可算無限で、最初から「指折り数えて実証できる範囲」を超えているからです。
☆ 《可算無限》が 《最初から「指折り数えて実証できる範囲」を超えている》となるのですか?

次のくだりと矛盾するような感じに思えるんですが?
◆ それは自然数なので(有限の世界なので)、「指折り数える事」によって現実として検証可能なものです。


◆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
整理すると、自分は認識論的には「連続体仮説の証明」はすぐに出せます。「人間はそうやって実数を作った」と言えばいいだけだからです。
 しかし実在論的にはできません。
(あ) 何故なら、いくら「人間はそうやって実数を作った」ところで、「亜連続無限はない」なんて一言も言えないからです。
(い) 自然は「そうなのかも知れない・・・」からです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ (い)が 分かりづらいです。(あ)とどのように連絡していますか?
by bragelone (2017-06-29 00:05)

brageloneさん、お久しぶりです。by ddtddtddt (2017-06-29 12:28)

 こういう話題はしばらくぶりだったので、ごちゃごちゃ偉そうにわかりにくい事を書きました。


>☆ というあたらしい説なんですね。

 いや、新説じゃないんです(あせりまくり(^^;))。数学における無限の正式な定義は以下だと、以前お話ししましたが(冗談みたいな定義ですが)、・・・

[定義]
 無限とは、有限でない事を言う。

 ここで有限とは、個々の自然数で表される個数と考えて下さい。上記定義だけだと単一の無限になっちゃう訳ですが(そういう集合論もあります)、これにペアノ公理系(自然数の構成法)を絡めると、

  「可算無限は、有限では数え切れない個数として定義する」

となるように思えるんです。なので、もし亜可算無限があったとしても、定義から可算無限と同じもの、となりませんか?。

 同様に実数の構成法を眺めるとどうも、

  「連続無限は、可算無限では数え切れない個数として定義する」

と言ってるのと同じだと、自分には思えます。なので、亜可算無限があっても、定義より連続無限と同じだと。

 だって、そうなるように作ったんだから・・・(^^;)。ただこれら、「定義より自明!」を認めてしまうと、数学としてはやりようがないんですよね。そういう事情で、用語を間違ったかも知れませんが、連続体仮説は「認識論的には自明」と言いました。

>☆ 《可算無限》が 《最初から「指折り数えて実証できる範囲」を超えている》となるのですか?

 そうです。そのようなものとして定義しました。

>◆ それは自然数なので(有限の世界なので)、「指折り数える事」によって現実として検証可能なものです。

 ☆と◆の対立は、無限集合の気持ち悪さの代表です。 無限集合では、内包と外延が一致しないんです。

  A={x|xの条件}

で集合Aを定義するやり方を、集合の内包的定義と言います。一方、条件に合うものを全て具体的に集めてやって、

  A={○,×,△,・・・}

「ほら見ろ!」とやるやり方を、外延的定義と言います。

 例えば、

  Red={x|xは赤いもの}

として、世界中から赤いものを集めて一か所に集積したとします。その集積が本当に「赤いもの」かどうかを確認するために、個々の物を全て取りあげ調べたら、たぶん全部赤いんです。これは内包を確認する行為です。

 一方、(無限に?)に眼が良いとして、集積全体を一目で見渡し外延的に判断する方法もあります。たぶん集積全体は真っ赤です。

 普通はこのように、内包と外延が一致します。同じ事を自然数全体の集合Nでやってみます。

  N={x|xは有限}

 Nの個々の要素は必ず有限です。「全て」有限です。だって自然数なんだもん(^^)。ところが「有限の全体」という外延は無限です。「有限のものしか集めてないはずなのにぃ〜!、・・・(^^;)。なのでアリストテレス(だったかな?)は「無限は矛盾だ。扱うな!、考えるな!」と言いました。

 この事に気づいた時、最初はずいぶん悩みました。そんな事にこだわる奴はたぶん馬鹿なんですが、そこは独学の弱みです。

 結論としては、標準論理(有限の世界の論理)を前提に集合論をやろうとする限り、「それは無限を扱ったからだ」としか言えません。

 こう言うと「それは責任転嫁だ!。何でもかんでも無限のせいにするな!。無限を扱うなら、無限用の論理を用意せよ!」と言い出す輩がいるのですが(対角線論法に矛盾あり、とかの)、たいがい珍妙なものが出来上がります。特に有限集合を扱わせた時に、そこで馬脚を出します。

 そこをまっとうにやって、まっとうな成果を出したのは、ラッセルとブラウアーくらいです。でも非常に苦労したのに、あんまり役に立つものは得られませんでした。


 という訳で、現行の集合論は「全部人間の都合の産物」なんですよ。個人的意見では。

 で実証不可能ですが(全部見れたら有限ですから)、自然が無限を許容していたとして、その実在無限を「人間の都合の産物である集合論」が記述してるなんて、数学で証明できるわけがない。できると言い出したら実在論的にNG。それを正式に言葉にすると、「連続体仮説は、現行の公理系では証明も反証も不可能」になると思います。でも有限と無限の狭間で、非常に魅力的な状況には出会えます。

 そしてそこを忘れて、「定義より自明。連続体仮説を証明した」と思い込んだら、巷で見かける勘違い野郎(マチガッテル系)という訳です。その証明は、連続体仮説をもう一回述べただけで、仮説は仮説で存在論的裏付けはありません。

by ddtddtddt (2017-06-29 12:28)

ででてx3さん。by bragelone (2017-06-29 13:44)

直感だけの・再考抜きの反応です。

▲(ヰキぺ) 現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。
☆ つまり ヰキぺ氏は この命題が《証明されている》と言っています。

しかるに ででてx3さんに言わせれば その証明の中身が 次のようだということですよね。:
◆  で実証不可能ですが(全部見れたら有限ですから)、自然が無限を許容していたとして、その実在無限を「人間の都合の産物である集合論」が記述してるなんて、数学で証明できるわけがない。できると言い出したら実在論的にNG。
☆ つまり 人間が自分の都合で《有限と無限(可能無限だと思いますが)とを分けたけれども 人間に出来るのはその分けたことまでである。つまり 分けているという事態以上のことは 何も言えない》
という中身なのだと。

つまり 証明には成っておらず 最初のお膳立てについての事情説明に終わるのだと。



◆ でも有限と無限の狭間で、非常に魅力的な状況には出会えます。
☆ これはまだ 楽しみにとっておいてあります。(理解進行中)。
by bragelone (2017-06-29 13:44)


brageloneさん、マジッすか〜!。by ddtddtddt (2017-06-29 17:59)

 そのように受け取られましたかぁ〜。
 俺ってそんなに危ないっすかぁ〜〜ぁぁぁ!。

 再び焦りまくり(^^;)。

 「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ことが証明されるのはOKです。

 そうではなくて「連続体仮説が真である、または偽である事を証明した」と思い込んだら、勘違い野郎です。

 「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」を証明したという事は、「無限集合は人間の都合で出来ている」事を、現行の標準数学が自ら認めたと、自分は受け取ります。現行の標準数学が健全である証拠です。

 もっともそのような事が、普通の証明方法で可能であったのは驚きであり、ゲーデルの業績です(コーエンらの基礎を作った)。

 ここで普通の証明方法とは有限手続きの証明です。無限に長い証明は証明とは認めません。もっともゲーデルの証明を、常識的に普通っていうの?って話はありますが(^^;)、たぶんコンピューターにもやらせる事ができます。コンピューターは有限手続きの権化ですから、そういう意味では普通です。
by ddtddtddt (2017-06-29 17:59)


ででてx3さん こんばんは。ねむねこさん お邪魔しています。by bragelone (2017-06-29 18:18)

いやあ すみません。早とちりだったようですね。

◆ 「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ことが証明されるのはOKです。
◆ ゲーデルの業績です
☆ 証明は証明で しっかりしたものがある。ということですね。それについての文脈のようなものを説明しておられるのでしょうか。


 
◆ そうではなくて「連続体仮説が真である、または偽である事を証明した」と思い込んだら、勘違い野郎です。
☆ この問題をめぐって じつはわたしは もし《非知》という規定のもとに捉えることが出来たなら 次のようになるかも知れないと問うていました。

つまり 連続体仮説は 真であると受け取ることも出来るし 同時にまた 偽であると受け取ることも出来る。と。

そして その受け取りにかんしては 《証明》の問題からはすでに離れていると。つまり 証明がゆるす受け留め方であると。
 
 
じつは まだよく分かっていませんと告白したほうがよいと思います。
濃度の問題になると 哲学的あたまでは何ともしようがないと感じています。
by bragelone (2017-06-29 18:18)

by ddtddtddt (2017-07-01 15:08)

>☆ 証明は証明で しっかりしたものがある。ということですね。それについての文脈のようなものを説明しておられるのでしょうか。

 してません(^^;)。以下は、
  [1]現代論理学と論理思想の基礎,遠藤弘他,八千代出版,1987年.
  [2]皇帝の新しい心,ロジャー・ペンローズみすず書房,1994年.
  [3]知の限界,G.J.チャイティン,SiBaccess,2001年.
を参考にしてます。また自分は具体的な形式論理として、ブルバキ数学原論方式しか知りません。

1.ヒルベルトの夢
 19世紀初頭に、集合論が非常に強力な数学的ツールになり得る事がわかります(カントールによる)。何でもかんでも集合で表現できるという万能ツールです。ところが同時に、無限集合論パラドックスを含む事もわかってしまった。そこで無制限な無限集合ではなく、節度を持った(?)無限集合論の形に最初の集合論は制限され、それが現在の公理的集合論へとつながります。節度のある公理的集合論は、少なくとも無矛盾であろうと、多くの数学者は信じました。

 でも信じただけです。数学は証明してなんぼの世界。ヒルベルトはその点に非常に不満を感じ、数学論理の無矛盾性と完全性の証明を目標とします。ここで完全性とは、公理から導かれた定理は全て正しく、逆に正しい定理は公理から導けるです。でも論理系が矛盾してたら無駄なので、最低でも無矛盾⇒完全が必要で、完全⇒無矛盾まで言えたら完璧です。矛盾とは、ある定理とその否定が、ともに正しいと判定される事態です。無矛盾なら、どちらかだけが正しい。

 その実行手段としてヒルベルトは、超数学を唱えます。たぶん日本語訳の問題なんですが、超数学は全然「超」ではありません(^^;)。

2.命題理論
 形式論理の基礎は命題理論です。そこでは例えば、A⇒B,B⇒Cが定理となったらA⇒Cは定理になる、とかいう事をやります(三段論法の一種)。例えばA⇒Bが「地球人なら宇宙人である」,B⇒Cが「宇宙人なら人間でない」が定理だった(正しかった)とすると、A⇒C「地球人なら人間でない」が定理になります。

 もちろんA⇒C「地球人なら人間でない」は間違いなんですが、この「推論自体は」正しいと命題理論は認めます。つまり命題理論が問題にするのは恒真「関係」だけで、そこにしか興味はありません。
 命題理論は次の4つの公理を持ちます。
  S1:(AouA)⇒A
  S2:A⇒(AouB)
  S3:(AouB)⇒(BouA)
  S4:(A⇒B)⇒((CouA)⇒(CouB))

  
 ここでA,B,Cは関係式、「ou」は「または」を、「⇒」は「ならば」を表します。S1〜S4が恒真「関係」なのはすぐ確認できますが、そこは無矛盾性,完全性の本質ではないと最初に言っておきます。

 で、次の超数学規則を追加します。けっこう爆笑ものですよ(^^)。
  C1:A⇒Bは、〜AouBの省略記法。ここで「〜」は否定を表す。
  C2:A,B,Cなどには、任意の関係式を代入して良い。
  C3:AとA⇒Bが定理なら、Bは定理(三段論法)。
 どこが「超」数学ですか。当たり前の話ですよね?(^^;)。だから超数学は日本語訳が悪いんですよ。直訳するとメタ数学です。じつはプログラミングの世界にメタ記述という開発手法があります。これはアルゴリズムを書くんではなくて、コンパイラーへの直接指示をさします。C1〜C3は人間という生体コンパイラーへの直接指示です。C1〜C3は数学ではなく、人間が意味を考えて認めたものだという事です。

 S1〜S4は公理ですから、恒真関係である事とは無関係に、S1〜S4の:の後の関係式は無条件で定理です。
 例えばC2から、S4のA,B,Cへ、B,C,〜Aを形式的に代入した、

  (B⇒C)⇒((〜AouB)⇒(〜AouC))
は定理です。C1から、〜AouB は A⇒Bと、〜AouC は A⇒Cと同じなので、
  S5:(B⇒C)⇒((A⇒B)⇒(A⇒C))
  
は定理になります。こうして三段論法の推移性(?)の「超数学的証明」が可能になります。

  C4:A⇒BとB⇒Cが定理なら、A⇒Cは定理。
(証明)
 何故なら(B⇒C)⇒((A⇒B)⇒(A⇒C))は定理なので、B⇒Cが定理ならC3より(A⇒B)⇒(A⇒C)は定理。
                        (証明終)
 上記(証明)は超数学的証明であり、C4は超数学の定理です。途中に出てきたS5は数学の定理で、非明示公理と言われます。

 命題理論ではこのようにして、非明示公理と超数学的定理を順次追加して行き、「S1〜S4が恒真」だったとすれば可能な「恒真関係」を増殖させます。実際の数学理論ではA1:「無限集合は存在する(無限公理)」などをS1〜S4とともに公理として、何が出来るか見ていく訳です。

3.ヒルベルト・プログラム
 A1などについては「それは検証不可能だ。そんなもの認めっから矛盾すんだよ」などと批難の嵐でした。おかげでカントール鬱病になり自殺します。でもA1のない集合論なんて、速度制限のあるF1みたいなもんで、ほとんど役に立たないんですよ(^^;)。
 この前言った実在無限をカントール集合論は記述すると、ヒルベルトは信じていたと自分は思いますが、常識的な線に彼は踏みとどまります。それが[A1+A2+・・・+S1〜S4]の公理系の無矛盾性と完全性です。

 さっきやったように、論理操作は原理的に完全に追跡可能なので、無矛盾性と完全性の検証はプログラムのアルゴリズム検証と同様に、機械的検証手順に帰着できると考えた訳です。なので有限手続きという事が必須です。
 もちろんそれがなったところで先の批判への答えにはなりません。なりませんが、その(超)数学的証明自体は「字が読めりゃ明らかでしょ?」と(即物的に)言えるものになります。そうすると「A1をどうするかに異論はありますが、認めたとしても何も間違っちゃいません。認めた数学も正しい事になりますよね?」。

 さっきの思いとは裏腹にヒルベルトは、現実を鏡のように写したものだけが数学じゃないとも考えていました。「数学は自由だ!」です。「数学は人間の意志の産物であり、ツールでもある」は私個人の意見です。

 ところがゲーデルは、その制限された目標すら駄目だと証明します(機械的検証手順で)。
by ddtddtddt (2017-07-01 15:08)


こんにちは。by bragelone (2017-07-01 17:48)

◆ 「数学は自由だ!」 および「数学は人間の意志の産物であり、ツールでもある」
☆ この言わんとするところは 数学は 《近似値で〔現実世界に対して〕勝負する》でしょうか?



理解できていないところが 二点あります。:

◆ S2:A⇒(AouB)
☆ この B は ほかの C や D やの可能性のすべてをふくむという意味ですか?


◆ C1:A⇒Bは、〜AouBの省略記法。
☆ なんで? 《否 A か B 》が なんで《 A ならば B 》を示すのか? 

B が真としてみちびかれたとき なお同時に A が共存していてもよいのでは?


初歩のミスは どうぞ好しなに。
by bragelone (2017-07-01 17:48)


ネコ様へ。好き勝手にbrageloneさんと使ってますが、お許し願えると思ってます(^^;)。by ddtddtddt (2017-07-03 10:20)

>☆ この言わんとするところは 数学は 《近似値で〔現実世界に対して〕勝負する》でしょうか?
 結局そういう事になるのですが、現実には特に集合論では微妙です。良く、数学のための数学 = 机上の空論って話も出ますが、自分の解釈では数学のための数学は基礎理論です。

 非常に難解な実用理論Aがあった場合「とにかくこうすりゃ〜出来るんだ(計算手順だけはわかる)」と言いながら工学系では使います(自分は工学系です)。この時、それの理論的本質を抽出して、(数学者にとって?)わかりやすい基礎理論を作り、Aと同等な実用理論BもCも作れるぞ〜、っとなった例はごまんとあります(応用範囲が広がった)。

 基礎理論は実用理論の抽象化なのでいちおう現実との関わりなしでも数学としてやって行けます。また「やってみて様子を見てみにゃ〜」・・・結果はわからない訳です(^^;)。そういう意味で数学は自由でなければならないし、ツール(補助線)としての役割を担う必要があると思います。

 無限集合論は、有限範囲では絶対に現実とずれちゃいけません。有限に対する実用理論だからです。有限集合論という分野が実際にあります。その一方で実数論に対する論理的基礎付けとか、連続体仮説とか、数学基礎論の人外魔境も含み、数学のための数学でもあります。

>初歩のミスは どうぞ好しなに。
 自分もいっぱいやります(^^;)。こういう場は、自分がどのように理解(了解)したか?、理解したと思ってるだけなのか?を反省する絶好の場だと思ってます。

>《非知》
 非知については「知りえないもの」くらいの理解しかありませんが、賛成です。「その受け取りにかんしては《証明》の問題からはすでに離れている」。つまりどのような公理系に基づいてなすかを最初に決めないと、数学的な証明は始まらないと。

>☆ この B は ほかの C や D やの可能性のすべてをふくむという意味ですか?
 結局そうです。ここのAとBはブレース・ホルダーという奴で、じつはこれ数学の変数概念と同じです。

  http://e-words.jp/w/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%80.html

 A⇒(AouB)における唯一の制限は、左辺のAにαを代入するなら同時に、右辺のAにもαを代入せよだけです。その際AとBは異なるという制限はないので、Bにαを代入してもOKです。

>☆ なんで? 《否 A か B 》が なんで《 A ならば B 》を示すのか?
B が真としてみちびかれたとき なお同時に A が共存していてもよいのでは?

 「かつ」を「et」で表します。
 〜AouBが、〜(A et 〜B)すなわち「「Aが成り立ちかつ、Bが成り立たない」という事はない」と同値だから、というのが一般的説明ですが余計わかりにくい気がする(^^;)。

 現在の形式論理は、集合論とともに発展してきました。なので命題理論の段階で既に、後続する述語理論を見越して集合論的発想が潜んでいます。まず関係式ですが、最も簡単なものは、

  xは性質Aを満たす.

の類です。これ述語「満たす」を含むから関係じゃねぇ〜だろっ、ていう意見もありますが、ここでは対象を指示すると考えられる対象式「でないもの」くらいに捉えて下さい(^^;)。xは最も簡単な対象式です。上記を省略してA(x)と書きます。
 命題理論は恒真関係だけを扱います。よってA(x)が定理ならA(x)は、全てのxで成立です。ところがA(x)⇒B(x)は一般的には恒真になりません。A(x)⇒B(x)が成り立つとは、xが性質Aを満たした時「必ず」xは性質Bを満たす事、は賛成して頂けると思うのですが、その上で関係A(x)とB(x)の外延集合a,bを想定します。

  a={x|xはA(x)満たす}
  b={x|xはB(x)満たす}

 a,bを想定すると先の関係は、x∈a ⇒ x∈bという事になり(xがaに属すなら、xはbに属す)、これはa⊂bと同じです(bはaを含む)。一般にはaはbをはみ出す部分を持つのでa⊂bにはなりません。aの補集合をa°で表します(a°={x|xはA(x)満たさない})。
 ここでaとbに関する、いわゆるベン図を書いて頂けるとわかりやすいのですが、aがbをはみ出さない場合、すなわちa⊂bの場合、a°∪bは必ず全体集合Xになり、逆も言えます。「∪」は和集合を表し、

  a°∪b={x|xは、〜A(x)ouB(x)を満たす}

と書けます。そして暗黙の方針として「一つの集合を与えた時、それと同等な関係を与えたのと同じ」を採用すれば、

  A(x)⇒B(x)が定理(恒真) ⇔ a⊂bが成立
                ⇔ a°∪bが全体集合 ⇔ 〜A(x)ouB(x)が定理(恒真)

という発想で、「A⇒Bが成立する事」を定義できる仕掛けになります(^^;)。

 じっさい命題理論に続く述語理論で、自分が一番重要だと思える非明示公理は、

  A⇒(∀x)A

です。

 もちろん全体集合Xは何か?という問題はあります。そこを述語理論に続く集合論で明確にするかというと、じつはしません。しようとするとパラドックス発生になるからです。公理的集合論は、そういう事に関わらずに数学できるようにした安全装置を持つ、人為的仕掛けです。

 安全装置を解除した場合、数学基礎論の人外魔境へと突入します(^^;)。
by ddtddtddt (2017-07-03 10:20)

bragelone

ででてx3さん。解説をありがとうございます。

§ 1 《 C1:A⇒Bは、〜AouBの省略記法。》

☆☆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ◆ C1:A⇒Bは、〜AouBの省略記法。
 ☆ なんで? 《否 A か B 》が なんで《 A ならば B 》を示すのか? 

 B が真としてみちびかれたとき なお同時に A が共存していてもよいのでは?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ くわしい解説をとにかく読んで 読み終わったらヒラメキを得ました。

この場合の B もプレイス・ホールダーであるのではないか。

つまり:
《 A が成り立つならば B が成り立つ》なる推論についてその中身はどうか? と
問うならば:
《〈 A が成り立たない〉場合にも B あるいは C や D やがそれぞれ成り立つ可能性がある》

これで よいですか?


§ 2 《恒真関係のみを扱う》とは?

じつは 分からないというのみです。

◆ 命題理論が問題にするのは恒真「関係」だけで、そこにしか興味はありません。
☆ あるいは:
◆ 安全装置を解除した場合、数学基礎論の人外魔境へと突入します(^^;)。
☆ 興味がありますが いかんせん 理解が行き届かない。


§ 3 《想定 ないし 仮説法(アブダクション)》の問題?

◆  基礎理論は実用理論の抽象化なのでいちおう現実との関わりなしでも数学としてやって行けます。また「やってみて様子を見てみにゃ〜」・・・結果はわからない訳です(^^;)。そういう意味で数学は自由でなければならないし、ツール(補助線)としての役割を担う必要があると思います。
☆ わたしが――《非知》説で大いに使っている――仮説法のことを ほぼそのまま言っているという理解があります。

そして 関連して知りたいのは そういった《自由な推理ないし仮説》のときに いわゆる《飛躍》はありますか? あってもよいと前提されていますか?

§ 4 《現実》との一致? 対応?

◆  無限集合論は、有限範囲では絶対に現実とずれちゃいけません。
☆ この《ずれていない》というその内実は 詳しくどうなのですか?

近似値でもよいのか?
あまりよく知りませんが 《近傍》といった概念もありますね?


§ 5 連続体仮説は 真無限――非知なる神――にかかわるか?

たぶん ででてx3さんは 《参戦》されないでしょうが。いちおう 掲げておきます。

by ddtddtddt (2017-07-06 13:33)

>《〈 A が成り立たない〉場合にも B あるいは C や D やがそれぞれ成り立つ可能性がある》

 期待していた反応とは違う訳ですが(^^;)、上記はその通りです。じっさいBが真(定理)なら、いかなるAに対してもA⇒Bは真となる事を証明できます(正しい結論は、どんな仮定を立てようが、とにかく正しい)。

 同等な事態として、間違った(偽な)仮定からはどんな結論でも出せる,矛盾した論理系においては全ての関係式が真(であり偽)、を示せます。

 いずれにしろA,B,C,D,・・・の外延集合をa,b,c,d,・・・として、a⊂b,a⊂c,a⊂d,・・・であればA⇒B,A⇒C,A⇒D,・・・は恒真ですので、ブレース・ホルダーと言えない事はない。

>◆ 命題理論が問題にするのは恒真「関係」だけで、そこにしか興味はありません。
>◆ 安全装置を解除した場合、数学基礎論の人外魔境へと突入します(^^;)。

 命題理論が「恒真関係だけ」を扱うのは、安全装置ではありません。前の例で言うと、A⇒B「地球人なら宇宙人」とB⇒C「宇宙人なら人間でない」が「正しいとすると」、A⇒C「地球人なら人間でない」が真になりますが、現実との比較テストでA⇒Cは偽である事がわかります。

 この場合、A⇒BかB⇒Cのどちらかが間違っていると、確実に結論できます。論理はそういう風に使って下さいね、というのが形式論理の立場です。

 つまり形式論理では、現実との比較テストが一切割愛されています。そのかわりに、推論の安全性「だけ」は保証しますよ、となります。そのような立場に立つと、意味論を割愛して機械的検証手順である構文論に全てを還元できると思ったからです(ゲーデルが、全ては還元できない事を証明したけれど)。

 それが、

「A1をどうするかに異論はありますが、認めたとしても何も間違っちゃいません。認めた数学も正しい事になりますよね?」

へとつながります。

>そういった《自由な推理ないし仮説》のときに いわゆる《飛躍》はありますか? あってもよいと前提されていますか?

 形式論理(構文論)の枠内で《飛躍》は駄目ですが、あくまでその枠内でです。極端に言うと、証明の過程で意味は考慮されません。一定の構文手続きに従う事だけが求められます。その根拠は、恒真関係だけしか用いない(であろう)から、です。

>☆ この《ずれていない》というその内実は 詳しくどうなのですか?
 集合論の場合、有限世界(有限集合)では一つとしてずれては駄目です。集合論の主要機能の一つは、物を数えるという事の抽象化なので、有限個数すら数えられないなんて、てんで駄目だから。

 幾何学の場合、点や線分を考えますが、大きさのない点や線なんてあるのか?と問われれば、ありませんよそんなもの(大きさがなかったら、見えないし(^^;))。そこは数学的理想化だという誤魔化しが入ります。

 近傍は、位相論の概念です。位相論は極限や連続性を扱いますが、現実をひどく抽象化したものです。しかし位相論の中に現実と対応したモデルを作成した場合、ほとんど現実と見分けがつかなくなるように、非常に注意深く作られています。

>§ 5 連続体仮説は 真無限――非知なる神――にかかわるか?
 たぶん参戦はしません。意味論(存在論?)に興味はありますが、構文論が本業なもので(^^;)。

 ・・・と書いた時、なんかネコさんと自分との関係に似てるなと思いました。ネコさんは物理に数学的形式があれば良いと言う。でも自分はそこに、素朴実在論を見たくなる。
by ddtddtddt (2017-07-06 13:33)

だいたいおしえてもらったみたいですね。by bragelone (2017-07-07 11:31)

つまり いかんせん 骨格と言うか 大雑把な結論だけ
と言うか。実際の演算などの中身は やはりむつかしい。

連続体仮説ゲーデル不完全性定理に仮りに文句を言
おうにも 手も足も出ない状態では どうにもなりませ
ん。

こちらは 一たん時を俟ちますが あと どうでしょう?
by bragelone (2017-07-07 11:31)

by ddtddtddt (2017-07-10 19:44)

>つまり いかんせん 骨格と言うか 大雑把な結論だけと言うか。実際の演算などの中身は やはりむつかしい。

 はっきり言って、連続体仮説の独立性の証明などは、具体的にはさすがに全然良く知りません。

 唯一できるかも知れないのは、完全性定理と不完全性定理のやや具体的なスケッチですが(参考文献[1][2][3]による)、やっぱりやりたくないなぁ〜(^^;)。
by ddtddtddt (2017-07-10 19:44)

by bragelone

いったん休みましょう。

brageloneさんへ追伸。by ddtddtddt (2017-07-20 14:57)

 集合論における安全装置が、どんだけ卑怯(?)なものかという話です(^^;)。論理系の無矛盾性,完全性が証明不可能である事、また集合論の逆理の問題などでの根本原因は「自己言及パラドックス」にあります。その最も簡単で、簡単であるだけに回避困難なものが「ラッセルのパラドックス」です。

 集合論では、集合の要素と集合そのものは区別されます。区別しなければ容易に「自己言及パラドックス」に陥るのは、明白だからです。またこの事から、内包と外延の不一致が起こって良い事にもなります。
 例えば個々の自然数1,2,・・・と、自然数全体の集合N={1,2,・・・}は別物です。同様に個々の有理数有理数全体の集合Qは別物です。個々の実数と実数全体の集合Rもそうです。これらは「自分自身を要素として含まぬ集合」で、いま見たようにごくありふれた集合です(常識的に定義できる)。それだけでなく数学のほとんど全ては、このごくありふれた集合上で行われます(常識的なんだから、そりゃそうだ)。
 でも集合論が万能ツールである由縁は、何でもかんでも集めてこれるところにあります。なので集合族と呼ばれる「集合の集合」は頻繁に使われます。集合族は実数論なんかでは必須の道具です。そういう訳で究極的には、「「自分自身を要素として含まぬ集合」の集合」を考えたくなります。これをAとします。また対象xが集合Xの要素である事を、x∈Xで表します(xはXに属すると読む)。
 ここでAは、「A∈A」でしょうか?「A∈Aでない」でしょうか?。

 (1)「A∈A」と仮定する。Aの定義より「A∈Aでない」でなければならない。これは(内包的)矛盾。
 (2)「A∈Aでない」と仮定する。Aの定義より「A∈A」でなければならない。これも(外延的)矛盾。

 つまりラッセルは、非常に常識的で安全であろうと思えた状況にも「自己言及パラドックス」を見つけてしまった訳です。じっさいAが「集合である限り」、その要素を集める過程でA自身についても「A∈Aなのか?」「A∈Aでないのか?」をテストしなければならない、からです。

 矛盾の原因が自己言及である以上、そのようなものは「集合を作り得ない」とラッセルは考えます。そして、そのような区別が可能な論理系を作れば良いと。それが階型理論(タイプ理論)で著書「数理原理」として提出します。これは画期的なものでしたが、その論理系は非常に運用が難しく、かつ不満足な結果でもありました。

・世界には何個のものがあるのか
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_other_ai.html

 「数学の命題は意味抜きされた記号に過ぎないのだから、矛盾を引き起こさない限り公理として使える」(ヒルベルトの立場)という考えは、ラッセルにはありません。この人にとっては存在論こそ要に見えます。にも関わらず数学を可能にするために、存在論的に非常に危うい、選択公理,還元公理,無限公理を渋々認めざる得ませんでした。

 選択公理と無限公理は、普通の公理的集合論にもあります。また非常に運用が難しいとは、数学の生産性が落ちる事を意味します。さらにその論理系が無矛盾かつ完全である事も、ラッセルは示しませんでした。もし正しい論理系を作れたなら、存在論的根拠から無矛盾性と完全性は自明だと考えたのかも知れません。
 で、上記のような状況では、実務に携わる普通の数学者には全く興味のないものです。それで「数理原理」は画期的ではあったが、歴史的な意味しかないと言われるのが現在(特にゲーデル以降)では普通です。

 「数理原理」の特徴は還元公理にあります。これは多分に意味論的存在論的主張で、「任意の関係式には、それを形式的に満たす対象式が必ず存在する」と言っているように、個人的には思えます。公理的集合論の無限公理は、いわばラッセルの無限公理+還元公理だと思えます。

・悪循環の原理
http://pweb.sophia.ac.jp/process/society/tetugaku/paradox.html

 さて集合論における安全装置ですが、タイプ理論と還元公理の精神だけかすめ取ったような感じです。そこでは「集合を作り得る関係」が定義されます。「集合を作り得る関係」とは何かと言えば、実質的には選択公理の下に真と考えられる関係式全てです。「自分自身を要素として含まぬ集合」のような矛盾を導く関係式は、真であり偽である事を示せるので、それらは「集合を作り得ない関係」なので「集合なんか考えるな!」となります。
 でも「集合を作り得る関係」かどうかは、やってみなきゃ〜わからないし、という事は矛盾が出るまで集合を考え続ける可能性だってある訳です。事前判定については何もありません。実用的には役立たずの、自明な禁止事項を書いただけです。

 それに対してラッセルは、事前判定可能もしくは自己言及耐性を持つ理論を構築しようと、非常な努力を払いました。
by ddtddtddt (2017-07-20 14:57)

ででてx3さん こんにちは。by bragelone (2017-07-21 21:53)

ねむねこさん こんにちは。またまた ラッセルのパラドクスを出されてしまいました。

◆ ラッセルのパラドックス
☆ は次のわたしのほうのブログで ねむねこさんから 訓練を受けたのでした。http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20170321

かろうじてパスし得たようですが 今回のは 鬼コーチのしごきにも似たむつかしさですね。

時間が要ります。

取りあえず 次が分かりません、
◆ 「「自分自身を要素として含まぬ集合」の集合」
☆ つまり:
◆ 自分自身を要素として含まぬ集合
☆ って何ですか? 《ぶらじゅろーぬを含まぬ人間の集合》=A1といった事例ですか?

そうだとして:
◆ A1は、「A1∈A1」でしょうか?「A1∈A1でない」でしょうか?。
☆ となると思うのですが おかしかないですか? 意味を成さないように思えるんですが?

by bragelone (2017-07-21 21:53)

ででてx3です。by ddtddtddt (2017-07-24 13:15)

>またまた ラッセルのパラドクスを出されてしまいました。

 ・・・そうだったんですかぁ〜。そうとは知らず・・・(^^;)。じつは疑問のポイントがわからなかったのですが。

 「「自分自身を要素として含まぬ集合」の集合」は、
http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20170321
にある、

  「自分自身を要素としない集合の集合」

と同じ意味で書いたのですが・・・。

 ちなみに、

  「これだと 定義の仕方の問題だということになるのではないのかなぁ

はその通りですよね。なので実務に携わる数学者は「数学の危機」にあんまり関心を示さなかった、ってのは事実です。

 「駄目なら考えなきゃ良いだけでしょ(公理論的集合論のやり方)」
 「だいたいそんなの使わないし」

・・・と(^^;)。
by ddtddtddt (2017-07-24 13:15)

いやあ こんど初めて 同じ問題だと知りました。by bragelone (2017-07-24 15:51)

タイプ(型)というのが 《メタ》のことですね。

ふうーう。

冷や汗をぬぐいまして。

◆ ・世界には何個のものがあるのか
☆ これは――わたしなりに――おもしろいですね。

けっきょく いやなことを言うようですが その《何個》が無限だとしても つねに数えられる有限の数なんですね。

たぶん だから 近似値で計算が出来るのではないかと。


なお 筋が違うかも知れませんが わたしが見切り発車した質問があります。
【Q:数の一は人ひとりの存在に対応している。それは 全体の一にも対応するとすれば この世界を超えるものは?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9845597.html


存在論的な数論の問題かなとは思いつつ 勇み足かもしれません。
by bragelone (2017-07-24 15:51)