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哲学いろいろ

規範

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 アマテラス普遍人格語のつまづき

 (1) S 語 と A 語

 わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。

 《スサノヲ( S )人間語》:
  ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕
  ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉
  ・ あやまち得る内容

 《アマテラス( A )人格語》:
  ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉
  ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉
  ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容
  ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた


 (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。

  すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。
 
  誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。


 (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。

 すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。
 

 (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。

 のではないだろうか。

 (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。

 (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。

 (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において こう語る。

   ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない
    《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。
    《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと
    思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。


 (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。

  スサノヲ感性語宣言を

  ・《なんぢ ころすなかれ》

  というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。

 (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:

 スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。

  ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして 
    身のやましさ反応と共なる心にすなおにしたがい 
    よく自由意志を用いよう》

 と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス理論として――言い換えます。

  ・ 《すなおになりなさい。
    わがままはいけません。
    ウソをつくのは わるいことです。・・・》

 (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?
  
  人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。

 (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。

  ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。
    どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと
   受け取られてはいけません。
    あたまを使いなさい。
    ウソは ウソとバレては いけません。
    上手につくのですよ。
    また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書の所為にしなさい。
    ・・・》

  と。

 (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。

 のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。へそが すでにひん曲がっているのではないか?



 これを問います。

 

 

基礎理論では いのちまたはその存在を傷つけないという共同主観が成っていると見ます。その応用部門では 緊急避難などの特殊な場合が 問題となり共同主観は(=人びとは) なお具体的にどう応用すればよいかを考えます。またそのときの取り決めは どういうわけか主権在民という原理の上に 国家という存在にも主権があると唱えられていることより 法律という(おもに禁止法による)規範制度においても実現されます。
 
 そこでただし 共同主観としての《いのちのとうとさ》が 法律条文になっていなくても《無実の人間を同意なしに殺してはならないという規範》という形になされたとするなら まづその規範化ということ自体が 問題をはらみます。

 基礎理論は 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと思ったりすることはあるが そうはしないものだ》と言います。応用部門では ひとつにこの基礎の基本命題を 《なんぢ ころすなかれ》というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。

 応用部門が基礎理論に先行することはないからです。規範化した命題のほうが つよい・エライとでも思うくせが人にはあるようですから。

 ★ 殺人者は刑によって死なせるべきだという考え
 ☆ これは・つまり考えることは 自由です。その《考え》と《規範》とは 同じ次元で比べられません。


 ★ 「負の善」が「すべきではない」や「してはならない」を意味せず、したければしていいという自由が保証されている程度ならば、つまり基礎ではあるけどなんら規範的性格をもたないなら、それは無意味な語です。
 ☆ だから そこです。そこが違うんです。《規範》は 愚の骨頂でしょう。感性が負の善だと反応し判断しているものを 理性は まださらにその当否を吟味し 疑い深い行動を見せます。そのおのれの猜疑心を休めたいという一心からのように 感性の回答=つまり正解を なおわざわざ文章化(つまりいわゆる文化)しさらに規範命題としたがる。

 基礎理論は 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして 身のやましさ反応と共なる心にすなおにしたがい よく自由意志を用いよう》と言います。応用部門では・というより基礎理論のあとただちに 理性は――これを一般にアマテラス理論と言いますが―― 《すなおになりなさい。わがままはいけません。ウソをつくのは わるいことです。・・・》と言い換えます。
 言いかえたところのアマテラス普遍語による理論は――ということは 基礎理論は スサノヲ語による人間語の表出です―― じつは・じつに こう語っています。《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取られてはいけません。あたまを使いなさい。ウソは ウソとバレては いけません。上手につくのですよ。また バレたなら うまく振る舞って 秘書の所為にしなさい。・・・》と。