《自然に帰れ》!?
とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?
《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。
1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?
2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。
3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。
▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
結局のところ
( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ
( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)
とは区別された
( S ) 人間 homme とみなされる。
なぜなら
( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し
( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。
【 S‐A 連関】 《現実の人間》は
( S ) 利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ
【 A‐S 連関】 《真の人間》は
( A ) 抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。
(城塚登訳)
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☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。
《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:
あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――
あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ
に花咲かせる人間のすがた。
《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:
簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る
かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の
すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。
つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。
☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?