▲ (十七条憲法) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
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☆ 指摘したいことが 三点あります。
(1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っていると思います。明治維新においても 同じように《万機公論》と言いました。
▲ (五箇条の御誓文)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
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(2) 次に 同じ最後の一文の中からですが
▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
☆ については 眉唾物です。お上つまり二階の論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。
◆ (上田正昭:日本文化の原点) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔に
《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと雖も止まず》。
とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・
【上田正昭】 その翌年の正月にも
《諸国の役民は 郷に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。
溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。
というのが出ていますね。
【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。
【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。
《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か
国忘れたる 家待たまくに》(万葉集三・426)
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(3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。
▲ (万葉集 巻三・415番) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首
家にあらば妹が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ
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☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが
聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。
以上の三点より
★ 日本人は昔からそうだった
☆ というその現実は したがって 次のようになるのではないでしょうか?
(1) 決して 議論としてのけんかをしないのではなかった。
(2) お二階さんと一階の市民たちとのあいだには みぞがあった。
(3) 《和》は 後者の一般ピープルのほうにこそ ゆたかに息づいていたろう。
▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
☆ と言われても 庶民は もともと けんかをしつつも 仲間として 和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだしたとしても けっきょく 自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。
どうなんでしょう? 初めから 日本は いぢのわるい国だったのでしょうか?