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哲学いろいろ

#107

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第六十一章a 聖徳太子によって わたしたちの批判するアマテラス‐スサノヲ連関体制の観念的ないしずゑが敷かれた

――告白5・8・15――


しかしながら いま述べていることは すでに 現実の歴史において明らかになりつつあることばかりである。新しい理論ではなく ましてや新しい信仰ではなく 現実がすでにそう動いているのに ただ沈黙していることは 二重の罪になると言わねばならないことによるヤシロロジストとしての共同主観の披瀝である。
そのため 原文の引用などをむしろつらねて行きたいと思う。
ところが すでにこの回転を受け取っているなら まだ受け取っていないと言って 〔前史の栄光としての〕自己を誇るべきではない(コリント前書4:7)。
《世間虚仮 唯仏是真》には 前史と後史とがあるということ。言いかえると 《わたしが去り行かなければ 愛はやって来ない》(ヨハネ16:7)という原理を 聖徳太子は――《ヒトコトヌシ‐オホタタネコ‐オホモノヌシ》の三位一体的な思想の存在するにかかわらず―― アマテラス語仮象現実の中で・つまり前史の栄光として 実践したことになる。すでに 原理を受け取っているのに まだ受け取っていないと言い張ったことになる。
《世間虚仮 唯仏是真》ということばは愛したが これを動態(信仰)として受け取ることをこばみつづけた。かくて あたかも《夕鶴つう》のように アマガケリして去った。自己を誇ったのだと考えられる。
聖徳太子は――きわめてあの日本人としてのように―― 母と《ともに従遊(死)することを契(ちぎ)り》 世間虚仮 唯仏是真の精神の中に生きていたとするなら アウグスティヌスと母モニカとがあの回転(回心)をはじめに論議しあっていたのとは違って やしろ資本推進力が 天寿国の中にあると 熱心にともに信じていたことになる。精神において 観念として。つまり 《神は 生ける者の神である》(マタイ22:33)のに あのウェーバリストの走りとなった。つまり《夕鶴つう》の伝説を生ましめる契機ともなったのではないか。
《〈わたしはアブラハムの神 イザクの神 ヤコブの神である〉(出エジプト記3:6 / 15)とあるではないか。神は死んだ人の神ではなく 生きている人の神なのだ》(マタイ22:32)。わたしたちが アダムでありエワであり アブラハムヤコブモーセであったし またペテロやパウロアウグスティヌスマルクスである。この判断の分岐点に立つ意志の科学は 交換価値アマテラシテとは無縁であり なおかつ商品世界に寄留すると言ってのように アマテラシテ貨幣を 時に用いる。聖徳太子が 観念の資本システムの中の交換価値であるなら かれ(それとして かれ・つまり抽象的人間)をも用いる。母(母斑)をのり超えたから。
しかし 天寿国は この地上にあっては 母斑の世界とも錯綜しており 《いま ここ》にある。けれども これを見分ける人は 《やしろ資本推進力が 天寿国として存在すると熱心に 精神において 信じている》人びとではなく この精神を・その人間の三行為能力の一体性としての精神全体を 推進力にして愛なる三位一体の 似像であるとみとめる人たちである(三位一体論15・23・44)。

  • もしここで この推進力を・つまり神を しりぞけるべきだと言う人びとは 《資本主義社会が自己の運動過程において 自己崩壊する》との歴史の流れ あるいは そのような預言を信じている。そうして この崩壊前のヤシロロジと崩壊後のヤシロロジとは ちがうと言ってのように 《いま ここ》では ヤシロロジとしてはあたかも仮りの(《虚仮》の)実践をおこなって むしろインタスサノヲイスム福音伝道(《唯仏是真》)に血道をあげていると言わざるをえない。

これは いわゆるコチコチのマルクシストたちであるが それは 聖徳太子の裏返しにしかすぎないであろう。
《そのようにして見るもの(母斑を母斑として認識する新しい眼)を精神がその似像であるやしろ資本推進力に或る仕方で関係させうる》人が しかも すでに完全であるというのではない。ヤシロロジは 試行錯誤をまぬかれない。けれども 憶測( doxa =栄光)というほどに そのようにしてその共同主観は 母斑の世界をのり超えている。しかし 寄留している。
寄留しているのなら 《自分の兄弟(他者のこと)を愛さない》ということがあるであろうか。したがって 《躓(つまづ)きがない人はたしかに完全である》のである(三位一体論8・8・12)。
《世間虚仮 唯仏是真》のことばを残して 去ってしまう愛などあるだろうか。だからブッダは 鍛冶工チュンダに差し出してもらったきのこ料理をみづから食べた。かれは ことば(文字)を遺したわけではない。

チュンダよ。残ったきのこ料理は それを穴に埋めなさい。神々・梵天・修行者・バラモンの間でも また神々・人間を含む生きものの間でも 世の中で 修行完成者(如来)のほかには それを食して完全に消化し得る人を 見出しません。
ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (ワイド版岩波文庫) 4・16・19)

と告げたのである。
復活したイエスは言った。わざわざブッダに倣うからと言って そのようにきのこ料理を同じく食べることを試みないようにと。真実のおとぎ話によって。

信じる者には次のようなしるしが伴なう。かれらはわたしの名を使って悪魔を追い出し 新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ また 毒を飲んでもけっして害を受けない。病人に手を置けば治る。
(マルコによる福音16:17−18)

《食べさせられ じつは 食べさせられていなかった食物(すなわち 聖徳太子崇拝)》(告白3・6・10)に気がついて それを見分けることが出来るようになるためである。

しかし なぜここ(日本の地)を去ってかしこ(ヨーロッパの地)へ 〔心が〕行ったのか。その理由は 神よ あなたはご存じでした。
けれども私にも母にもお示しになりませんでした。母は私の出立(しゅったつ)をひどく嘆きかなしみ 海辺までついてきました。母は私をはげしくつかまえて つれもどすか それともいっしょに行くと言い張りましたが その母を私はだましたのです。そしていつわって 良い風が吹いて航海できるようになるまで 友人をおきざりにしないつもりだ などといいました。私は母にむかって うそをついたのです。しかもこのような母に。そして逃げ出してしまった。
こういうことができたのは あなたがあわれみの心をもって なすにまかせたまうたからです。あなたはのろわしい汚れにみちた私を 海の水からまもり 恵みの水のところまではこんでくださいました。この水に洗われることによって 母の目からあふれる涙の流れも乾くはづでした。母は その涙を私のため毎日あなたにむかって流しながら 面の下の地をうるおしていたのです。
しかし いっしょでなければ戻るのはいやだと言い張る母をやっとのことで説得し 乗る船のすぐ近くの場所にあった聖キプリアヌスの記念聖堂に この夜はとまることになりました。しかし その夜ひそかに 私は出発してしまった。母のほうは 祈りかつ泣きながら そこにとどまったのでした。
わが神よ そんなに多くの涙を流しながら 母はあなたに何を乞いもとめていたのでしょうか。それは 私の船出を許したまわぬようにということでした。しかし 深く慮りたまうあなたは かのじょの熱望の核心はお聞きとどけになりましたが そのとき乞いもとめていたこと すなわち いつもかのじょが乞いもとめていたものに私をなしたまえという願いについては 考慮なさらなかった。
(告白5・8・15 〈母の意にそむいてローマにおもむく〉)

(つづく→2007-04-10 - caguirofie070410)