《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか
《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。
その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり
○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち
○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。
○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。
☆ これはなぜか?
いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。
以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。
☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html
ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。
まづ 最初の定義として こうあります。
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商品経済においては、
社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、
個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、
労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。
労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。
この機構をマルクスは物象化と呼んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96
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☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。
人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。
ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。
現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?
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☆ 結論としてですが
○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。