caguirofie

哲学いろいろ

かつらきの神

ねむりねこ 2015/02/14 17:10

 ☆ 何かヘンだな。つまり 雄略オホハツセワカタケルに堂々と名乗り出たときと えらく違う。どこでどうなったんだろう。・・・
  なんでだろう なんでだろう。
 ◇ たぶんに政治的な理由。
大和朝廷は、地方に住む大豪族と婚姻を通じて、その豪族の祭祀権を簒奪するということを、どうやら盛んに行なっていたようなんですよ。
祭祀権は女性にあるので、祭祀権を持つ豪族の娘を天皇のお嫁さんにすることで手に入れる。
そして、
自身の支配に都合の良い形の神話を作り、神々の組織、系統化を行なった。


葛城の神は、豪族の葛城氏が祭る神であったので、葛城の神の祭祀権を持つ葛城氏の娘と結婚すれば、葛城の神の祭祀権が手に入る。天皇家は、他の豪族とは異なり、妻問ひ婚じゃないから、こういうことが出来ちゃう。そして、葛城氏は祭祀権を失う…。
天皇家と葛城氏は盛んに婚姻関係を結び、葛城氏の娘の血を引く天皇が何人もいますので、「葛城の神は、オラッチの神だ。オラッチの先祖だ」と言えちゃうんですよ。


さらに、時代とともに葛城氏の力は衰えていったので、それに呼応するように、葛城の神の重要度が減っていった。


それから、
奈良から京都への都移りも、葛城の神の重要度を下げることに大きく関係しているんじゃないですかね。


ここ↓
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-29.htm
なんか、結構、参考になると思います。

bragelone

 ふうむ。
 ▲ 萬遜樹:「国つ神」葛城の神の没落 1999.4.14
 http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-29.htm
 ☆ 上山春平が典拠だと記されています。上山ならほとんどぜんぶ読んでいます。
 葛城について そこまでのことを書いていたか。忘れたとしたら わたしはそっくりそのまま忘れていることになります。


 たぶん まづふたつの段階(時期)に分かれると思います。
 (1) 国家の成立へ向けての動きが始まり 中央集権体制として天武オホシアマによって実現し言わば完成するまでの国家建設期。
 そして
 (2) そのあとの藤原氏による執行役員制( CEO )のもとに《 A - S 連関制》としての国家が展開し或る意味で成熟して行く段階。(武士の台頭までの時期)。


 (1)の時代においてすでに 各地のムラムラのまつりをたばねて 中央統一政権によるマツリゴトを敷くというかたちは 動き始めていた。
  ムラムラのマツリでは 秋に実りを得てその初穂を神(神々)にささげて めぐみをとうとび祝うシルシとした。あとは どんちゃん騒ぎとともに ともかく神々と共食をした。


 このマツリというマツリが全部一からげに束ねられ アマテラス公民によるマツリゴトのもとに寄せられた。税を貢ぐという制度となった。
 ムラの祭祀権は 統一司祭なるアマテラス公民のもとに管理されるかたちとなった。
 ムラの豪族の娘との政略結婚もあれば アマテラス天皇の宮に仕える《うねめ(采女)》として差し出すようにも促された。


 このように(1)の段階では すでに中央集権制なる統治のもとにムラムラは服したと言っても まだムラの神は たぶん傷を負っていない。
 だから 古事記では 葛城の神なるヒトコトヌシは雄略ワカタケルに対して 対等かまたは上の位にある。


 日本書紀では その地位関係が逆転して天皇によって島流しに遭ったというとき それは推測としてすでに(2)の段階に移っているかと思われる。


 すなわち (2)の段階では確かに ムラムラの人・モノ(米・特産物など)そしてカミも おそらく懐柔され中央の管理下に入って行ったものと考えられる。
 ヒトコトヌシの神が 難なく配流に遭うというのなら・そしてのちには京都にまで引き連れられて行って カモ(上賀茂・下賀茂神社)という姿として祀られるようになったとしたなら それは いいようにあしらわれていると見るしかないから。


 というのも そうだとしたら 中で三輪の大神(おほみわ)神社の神であるオホモノヌシの神については 話が別であるとも考えられるから。
 つまりオホモノヌシは このような中央政権による束ねとしての懐柔に必ずしも遭っていないと思われるから。
 大神神社とその神については さすがの――カワチのワケ系統の――アマテラス政権も なかなか手が出せない。


 アマテラスオホミカミを三輪山でも祀れと言われて どうも大神神社はこれを拒んだものと思われる。やがて押し問答の末 譲歩して その摂社のひとつである檜原神社にはアマテラスの神を祀るということで双方が手を打った。(つまりは それゆえ 別の場所に――つまりは 伊勢の地に――アマテラスを祀る神宮を建てざるをえないこととなった)。


 ふうむ。(2)の段階で 葛城のヒトコトヌシなる神も 手なづけられ ブ男の僕のごとき人間になった。というわけでしょうか。
 物語のチカラは 大きいですね。虚構においてでもそうなったなら そうであるということになる。


 ふううーう。何か見落としていたり勘違いしていたりはしないだろうか。

ねむりねこ 2015/02/15 01:33

婚姻による豪族からの祭祀権剥奪の物語ではないか、と言われているのが、
 『古事記』のサホヒコの叛乱


サホヒメ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E7%A9%82%E5%A7%AB%E5%91%BD


祭祀権の剥奪は豪族にとって自身の権力の基盤、支配の正統性の根拠を失うことを意味する、
さらに、
これによって、豪族は大和朝廷に組み込まれてしまう。
だから、
サホヒコは叛乱を起こしたのではないか、と。


古くからその地を支配してきた大豪族からすれば、
こうした事態は面白くないですから、朝廷に対して叛旗を起こしたというわけです。


大国主にしたところで、
スサノヲの娘であるフセリヒメを娶ることによって出雲の支配者になれたわけでしょ。
さらに、
古志の国、糸魚川ヌナカワヒメと婚姻することによって地上の王となった。


古志というのは、古志のヤマタノオロチの「古志」。
出雲王朝にとって、古志の国は、ライバルの国で、かなりの脅威であった。
大国主ヌナカワヒメの結婚というのは、両国の和平条約とか、同盟関係とか、そんなことを意味しているのでしょうね。


国譲りの時、タケミカヅチと力比べをしたタケミナカタは、このヌナカワヒメの息子という説もあり、逃走の際には、出雲→古志→諏訪をとったんでしょう。
中仙道は野蛮人が住むところだから、いくら神さまといえども、こんな逃走経路をとって逃げることは出来ない(笑)。
東海道も同様で、毛の生えた野蛮人の住むところだから(笑)、
逃走経路は、北陸道以外ありえない!!


諏訪神社御柱、これは古志文化圏の特徴らしく、大国主が祀られた高層の社とも関係があるなんて言われているようですね。
東日本の巨木信仰が出雲に入って、ああいう社が作られたんだと…。


ちょっと脱線しましたが、
日本神話の類型というのはかなり特殊ですよね。
日本の神話と比較的よく似ているといわれるギリシア神話と、
女神との結婚によってその地の支配権を男の神が手に入れるという点で、
大きく異なっているんじゃないですか。
スサノヲにしても、やはり、お婿さんですしね。
スサノヲのオロチ退治も、神話的に言えば、たぶん《難題婿》の類型に過ぎないのでしょうし。

bragelone

 とりあえず簡単にしるします。

 崇神ミマキイリヒコイニヱ――つまり 三輪イリ政権の創始者であり のちに日本国の《初国知らししすめらみこと》であったとも呼ばれる。つまり 西暦300年ごろ――のときにも 古事記には その政権を建てたときに 《四道将軍》を派遣して各地をその思想で感化したと書かれています。思想とは イリなる歴史知性(《世界‐内‐存在》たる人間)の誕生ですが これもけっきょくあたかもアマテラスの神のもとなる全国統一政府としての動きであるように描かれています。

 社会が 平屋建てであった時代とそして そこへ第二階が築かれて行き二階建ての国の家に成って行く段階とは 別であったと考えます。


 つまりは オホクニヌシのムラがたぶん武力の皆無だとは見ないほうがよいと思いますがの善隣友好外交によって ムラムラの交流が出来て行った時代は まだ平屋建ての段階であったと 見ています。
 そのあと アマテラス国からの服属の要求があった。そしてくにゆづりが起こったと。


 サホヒコ・サホヒメの事件については あとで考えます。

 取りあえずです。

 サホヒメは 垂仁イクメイリヒコイサチの妻ですね。垂仁は イリヒコというように イリ政権の二代目です。崇神ミマキイリヒコの子です。
 つまり 政権の強さを誇ったりその優劣を競ったりしたことはあったと思いますが まだ四世紀のお話です。


 600年前後の聖徳太子の頃には統一的な国家を建設中だったと見ますが それにしてもムラムラの豪族がまとまるのは 672年(壬申)の乱を経たあとです。天武オホシアマも あたらしく八色の姓で 各地のムラオサ(豪族)らの地位や身分を全体としてあらためてまとめなければならなかった。


 400年ごろに現われた応神ホムダワケのときに 社会形態の二階建て構想が起きたのだと見ます。アマアガリの思想です。


 したがって サホヒコが主導権を奪われたり奪い返そうとしたりしたのだとは考えますが この四世紀にあって――例の邪馬台国卑弥呼や台与の三世紀のあとですが―― 統一国家を目指していたとは(記紀では すでにそう書かれていますが) まだ思えないでいます。

 
 応神ホムダワケのときに アマアガリの構想が芽生えて 三輪イリ政権と婚姻関係をむすびそして各地の――たとえば ツヌガ(=敦賀)や近江の――ムラムラをまわって言わば搦め手から懐柔策によって主導権を握る手筈をととのえて行きました。

 400年ごろからそれが始まって 百年の計と言いますがちょうどその百年後の500年ごろに 例の継体ヲホドが 越前の地から出て統一第一公民アマテラスとして名乗り出て すったもんだの末 欽明のころだとかに いわゆる日本はまとまって来たのだと見ます。


 遣隋使によると 統一第一アマテラスの名は たらしひこ(多利思比孤)だと言います(隋書)。つまり 応神ホムダワケは 三輪イリ政権に対して河内ワケ政権ですが ホムダワケの母が 例の神功オキナガタラシヒメです。つまり ワケ政権は タラシ政権と呼んでも同じなのだと見ます。それが 聖徳太子のころにも伝わっていると考えられる。



 推測を交えていますが だいたいこんな見取り図を描いています。二階建て構想の芽生える以前と以後とでは 社会形態のあり方として違いがあると思いますが どうでしょう。