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哲学いろいろ

正しいとは一体何なのか?

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★ ただしい


☆ というのは ヨコに寝〔かせ〕てしまったものを タテに立たせる
――なにやら おかしな話ににおいますが――という意味です。

それ以上の意味は――偏狭な日本人の思い成すところでなければ――あ
りません。

猿が直立歩行をやらかしたというコトとその意味が ただしいという捉
え方のことです。

立って――タテになって――歩くと おのおの自分のヘソが曲がってい
るのかいないのかが 分かるというものです。


ヘソが曲がっていないのが ただしいということです。

もっとも 人間はずる賢いので 折れて曲がって折れたかたちでまっす
ぐに見えるヘソがあるかも知れません。



        *




人間にとっての《まこと・ほんとう・真実・正義・ただしさ》はすべて 
《わたし》の主観真実です。相対的なものです。まちがっていても お
のが真実だという場合もあります。

 


ウソ・イツハリもあれば心からのまこと(あるいは まごころ)といっ
た事例もあるそういう自己表現をなすのが 言葉として 一般的なスサ
ノヲ市民の人間語です。



それだけではつまらないと言うので 人びとは なるだけみんなに共通
の認識が持てないかと思案をめぐらせ いわゆる普遍性を問い求めまし
た。公共のもの・ないし《おほやけ(大宅家のことらしい――プリンス
たること――)》のこととしての・つまりアマテラス公民としての特別
な人間語をつくり出して行きました。

あやまつは人の常というごとくのあやまち得るスサノヲ人間語に対して 
すでにあやまち得ざる〔という神話を形成してしまった〕アマテラス普
遍人間語です。





事物を要素に還元しつつ その要素どうしでその内容としての互いの異
同を探し出す。

見つかったなら その《同》の部分で互いの共通性ないし一般性あるい
は普遍性を捉える。

世界認識を まだ主観による良し悪しの判断を控えておこなったならそ
の場合の普遍性は 善悪観から中立のアマテラス科学語を得ます。

こんどは良し悪しの判断を交えるなら そのときにも もし普遍性があ
ると思えた世界認識としては いわゆる倫理を扱っており これをアマ
テラス人格語と呼んでいます。

このような・おほやけの言葉としてのアマテラス普遍語――科学語およ
び人格語――を 人びとが互いに世間をわたるときの(あるいは 世の
中をおさめるための)道具としたわけです。
独り善がりでは 立ち行きません。




人間にとってその能力で得ることのできる普遍性は アマテラス科学語
としては 少数意見をも受け容れ合い互いの仮説に対する批判を自由に
おこなってすすむその歴史過程にあります。学問としての過程が 普遍
性として いとなまれます。

(絶対性なるアマテラス普遍語は 人知のおよぶところではなく ゼッ
タイにありません)。

同じくアマテラス人格語としては これは おそらく人間の思考を超え
たところで得られるヒラメキやいわゆる良心にもとづき その事態の良
し悪しを こんどは判断し その倫理的な意味での普遍性を問い求めて
行く過程であるようです。

かんたんには 生活日常において モノゴトを思いコトを起こすときに
心に起こるヤマシサ反応というリトマス試験紙をとおして 善か負の善
かを判定するようです。

(むろん そのような事情からして その良し悪しの判断は どこまで
も主観的です。
(もっとも この主観の内容が 人びとによって けっこう妥当ではな
いかとみとめられ 共有され 共同主観となることがあります。これが 
コモンセンスです)。




         *




あらためて言って 科学語も人格語も アマテラス普遍語とて すべて
人間のわたしなる主観のなせるわざです。

このような《能力に限りのある》人間としては せめてもの願いには 
《スサノヲ人間語 と アマテラス普遍語との互いに絡まる全体として
の世界》をしづかにながめ捉えて――安易に《神話のマジック》に逃れ
ようとすることなく―― よく言われる譬えを用いるならば 泥の中に
(つまり あやまち得るスサノヲ土着人間語の中に) 一輪の蓮の花の
咲く光景を夢見ること。・・・これが 《ただしさ》のまぼろしでしょ
うか。





              *




こんなことは しかしながら おしえて! goo と言わずとも すでに
誰もが世間の波に揉まれて 大なり小なり まなび取っているのでは な
いのか? このヤロー。





人間の侵すただしさや善の絶対化とは何か? 

アマテラス普遍語――その理念なら理念――を大前提にいただき そ
こからうんぬんかんぬんと主観が論理だけで推し進めるなんぢゃらか
んぢゃらという観念の大理論 これであると なぜ知ろうとしないの
か。
 

No.13

★ (№11お礼欄) さて、この質問は「道理」ということについて各々


の定義を知りたいということです。
☆ 辞書から引用された定義でよろしいのではないですか。



★ 正しさということについてのご意見は分かりましたので、正しさという
ことを抜き取った後の道理という概念の定義を教えていただければと思いま
す。
☆ 《ただしさ》を考えることによって 辞書の定義における《筋道・道》
の内容が分かると思ったわけです。


例示に終わりましたが・そしてなお例示としてになりますが:

① ヘソが曲がっているかどうかの問題だ。行動における中身というよりは
行為する主体たるわれの主観が いかにはたらいているかというその内容を
問題としたい。《客観》は どちらかと言えば 司法・法律の問題だ。



② ヘソを曲げて ものごとの筋道に見合った内容を考えたりおこなったり
することが出来るか?

③ 《タテ》というのは 神とわれとのカカハリを イメージとしてですが
示すように思われます。(動物は そのカカハリが 本能において現われる
のではないかと)。



④ 昔むかし・大昔には 道理は 《おほやけ:アマテラス公民》の言うこ
と・成すことにあると見られていた。誰もが見ているという意味で《客観性》
があるという理屈でしょうか?

⑤ チカラが正義だという考え方が 道理を決める議論に一役買っていた時
代があった。いまは どうだろうか。



⑥ アマテラス公民が チカラによる権力奪取とその人間たちの世襲制ない
し身分制によって決まるのではなく そうではなく スサノヲ市民一般のあ
いだから普通選挙の投票によって決める民主制になった。
つまり アマテラス公民となった人びとの用いるアマテラス普遍語をめぐっ
て 人びとはみなが その科学性や人格性について自由に見解を述べ合う。
――この過程が 世の中の道理である。



⑦ 前項の重要性を強調するためにですが。
アマテラス普遍語と言っても つねにタテのものがヨコに寝てしまいがちな
ので・人びとは へそを曲げるのが好きな人間もいるようなので その自分
たちの勢力のおよぶ範囲においてのみ通用するような言ってみればアマテラ
ス方言を《創造し 活用する》くせがある。
――よって道理には この権力の地位にあるお二階さんの発言や思想につい
てよく検証し検討することが含まれる。





☆ もうここでストップします。これらが:
★ 自然の理、人生の理、社会の理
☆ の内容を成すと思われます。


権限を持つと:
★ 柔らの道
☆ にあっても 《寝》技がいろいろに出て来るのかも分かりません。

神事と呼んで国の《伝統》を担う世界にあっては 女人禁制が保たれ 腕力
が道理を示し続けているのかどうなのか?



★ そこには、主観的な部分を超えた、客観的に認識できる部分が存在しま
す。
☆ が そういった決まりや法律の部分では 第三者委員会が 道理をにな
うのかも知れません。



演繹法ですすめば 主観も客観もすべて筋道をあゆむことが出来るのだ・そ
れが 道理だと言い張るところの:

☆☆>このスレッドにも どうしようもないアホウが約一名出て来ています

★ あなたが見捨てた人ですか?
まあ、余計なことですね。
☆ 人間どうしのヨコの関係は――自由であって――つねに互いに疎遠にな
るモーメンタムがはたらいています。


ところが 《タテ》の関係は やはり自由であって・また自由すぎるくらい
であって しかもすべて・つねにお見通しの世界でもあります。


つまり 回り回って 人間どうしのヨコの世界も じつは 関係の絶対性と
よぶほどの社会性・相互なる共同自治性――腐れ縁?――があります。


《見捨てる》ことも 関係行為に入ります。

人間の愛は 限りがありますがなにものかナゾとのカカハリでは その相対
的な好悪や愛憎なる正負の愛が そのカカハリとしてのいわゆる摂理の内に
うまい具合におさめられる場合があります。

ふつうは 見捨てたら もうそれまでです。


ただし すべては――どれだけ憎んだとしても―― 互いに《われに還る》
ことのキッカケをつくりあっている。

これが ただしさのまぼろしとしての道理です。主観 あるいは 間主観性
( Intersubjektivität )の視点から見た場合です。

客観の分野は おまかせします。