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哲学いろいろ

生活を微分したら 信仰のイメージがついて来た!? 現代人であっても変わりはないのではないか?

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 1. ひとの生活を微分したらどうなるか?

1-1. 非思考の庭――信仰なる動態――をイメージとして示すヱクトルのよう
なものになるのではないか?

1-2. 《わたし》の生活を・思想を・存在を・あるいは人生をそして人格をあ
たかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?

2. 次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。

  ○ 《わたし》なる存在

   [自然本性+α]:霊我: 信じる:非思考の庭(ヒラメキ・良心)
   ------------------------------
   [自然本性]:精神(心): 考える:思考の緑野(コギト)
   [同  上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感)

 

 

 



3. すなわち 無神論なる信仰のばあい――《神を信じない すなわち 無い神
を信じる》場合――は 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無
条件で無根拠にてそう受け容れる)。

3-1. こう捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分する
と――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等
間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。

3-2. その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえら
んだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義たる義としている。

3-3. つまり 無神論者の理念は 他人(ひと)との互いに対等なる等距離外
交である。


 
4. それに対して 有神論の信仰のばあいは――たとえば〔思考に非ずであって
も〕具体性を持たせようと思えば きよらかなおそれを抱くことといったイメージ
になると思うが それは措くとして―― けっきょくその生活や人格を微分しても
結果は出て来ない。微分することはむつかしい。

4-1. 生活態度にカタムキが無い。(心の明け あるいは 能天気)。有神論
者は 頻繁におのれのあたまの中をエポケーしている。非思考の庭におのれをゆだ
ねている。不連続で飛び飛びのカタムキがある。

4-2. 先ほどの言い方〔(3-2)〕に倣うならば 《義無きを以って義とし
ている》(親鸞)。

4-3. 《エポケーをとおしての能天気》は ケセラセラ史観に似ている。けれ
ども 無神論者が ひらかれた球面としての信仰(つまり これが 無い神の信仰)
を信念とする等距離外交において ケセラセラ史観をも或る意味で意識していると
するなら 有神論者はこれを 意識していない。
 
4-4. だから神を信じる者には 信念のごとき円も球もない。もしそれでもイ
メージを呼び起こそうと思えば このような微分の結果というのは――へんな恰好
であるが―― 自然本性 + α としての霊つまりエーテルのようなものである。無
神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。

4-5. 先ほどの等距離外交なる方針に照らし合わせるなら 《大道は無門であ
る》である。神を受け容れているひとには 無神論者の抱いていると思われるとこ
ろの《信念》が無い。(固まった信念はないのである)。《義》が無い。心に囲い
が無い(心の明け)。無門。あらためて言えば 能天気である。





5. なお いわゆる宗教のオシヘを《信じている》場合というのは――けっきょ
くオシへは それが言葉で表現されているからには 《考える》ものであり 《非
思考》にはならない そうであるからには―― 思想としての信念たる義を抱いて
いる。つまり 無神論者のタイプになる。宗教者は 無神論に立っている。

6. 無神論者と宗教者ないしその信者は その《わたし》が一個のボールのよう
なものである。

7. 神をいだく人は 心に囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にした
ら――野球のボールかバスケットボールかラグビーボールかは知らないけれど――
それぞれそのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。あたかもその人と同
じようになる(パウロ)。ミラーニューロン現象なのだとか。

7-1. 相手たるそのボールの――精神の遍歴としてまとまった歴史の――積分
たる心に寄り添ってやり その中の交通渋滞をも受け容れてやり あたかも引き受
けてやってしまう。アース役である。

7-2. こうして ややもすると 現代の病いが起きる場合がある。起きなくて
も 受け身であり堂々とアース役としてごみ処理をこなし交通整理をおこなってい
る。病いに傾くならそれは 名誉の負傷であり これを・つまりみづからのよわさ
を 人はほこるべきである(パウロ)。





8. おそらく現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんながみんな
で人びとそれぞれの心の交通渋滞を受け留めあっており 相身互い身 引き受けて
やっていたのかも知れない。

8-1. コンサルタント料は 只であり おそらくそういう意識はなかった。心
のモヤモヤは あたかもおのづと分散し稀薄となっていたかも。心の共同体。

9. 現代ではそのような人びとの互いのきづなが ほどけて来たのか。あるいは 
朽ちて来てしまったのだろうか。つまり アース役を引き受けての塵埃の分散・稀
薄化がとどこおった。か。

9-1. 人びとのカカハリ(関係)ないしマジハリ(交通)といった相互主観性
を断ち切って 個人の単独の栄誉や誇りや病いを捉えることに限ってしまい おま
けに精神分析は 内向し内攻してしまった。ドーパミンは 人びとの心の共同体と
して起きるものであるのに。




10. ここでは 有神論および無神論としての信仰の視点を推し出しまた切り口
としていますが 現代の人間と社会についてさらにみなさんからご見識をたまわり
たいと存じます。

11. ただしご回答に対しては質問者として納得の行くまで問い返しつつ問い求
めをすすめてまいります。

12. 取りあえずは ご自身の生活を微分してみてはいかが? といったおすす
めになっていますが その点についてはどうでしょうか?