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哲学いろいろ

エワとアダム あるいは スサノヲ語とアマテラス語

 以下は たわむれの仮説です。

エワのいう女の人は 知恵に長けていた。光がモノに当たって 遮られても その後ろ側の陰となった地帯にも あたかも曲がって進むかのように 入っていくと知り ここから 自分の魂の 方向の偏りを想い描きました。このふとした体験を 夫のアダムにも話しました。かれのほうは そのような心のズレについては 気が向きませんでした。

ここから 心のズレ 魂のユレとマガリ そして 人と自分とのチガイを知ることになったというおとぎ話の始まりです。

ここから 言語表現のいわば無限の可能性を見ることになったと想われます。言葉による世界の知解に対する飽くなき追求が あたかも生存の欲求を満たすことであるかのように始まる。 その言葉の表現における人びとのあいだでの互いの理解のちがい これも 分かってきた。

知恵の木から 人間はみづからが その木の実を採って食べた。エワに勧められて食べたアダムにしても 同じ言語表現の世界に入り その海に漂うことになった。

知恵の木の実を食べてからは ことばの表現によっておこなう意思疎通において 互いの思いにちがいのあることを知ることになり 善とそうではない悪とが 始まった。自分の思いが善だと思えば それと違っている相手の思いは 善ではないと思いたくなる。それは 悪だと言いたくなった。

ここからは 言語にふたつの類型が始まった。善だ悪だとわたしの思いを語るスサノヲ語と 相手に善と思わせる表現を用いて相手を説得し 自分の善を実現していこうとするアマテラス語とである。

人間語ともよべるスサノヲ語は 互いの善を 互いに悪だと思っても これらを互いに認め合って 生きる素朴な共生の知恵である。(ムライスムあるいは インタスサノヲイスム)。

アマテラス語は あくまで 光のあまねく世界を照らすように 概念の普遍性を求める表現形態である。途中でその真理追求を打っ棄(ちゃ)って 相手の無知につけ込み 相手に見せかけの善を ほんとうの善であるとして丸め込む場合を含めて 一般にこの類型は アマテラス語弁論術と呼ぶとよい。

(科学も つねに 普遍性の明確化については 進歩する状態にあるとしか言えない側面があり その場の暫定的な判断に従わざるを得なかったり あるいは 既成の秩序や既存の現実が重くのしかかって その不合理だが事実としての有力に従わざるを得なかったりする。そのとき しばしば アマテラス語弁論術は 言語表現の真実追究としても科学的真実の追究としても空しい場合が見られる)。

ブッダも 社会現象という側面については とうぜんのごとく この言語表現から見た場合の縁起の世界について そのつねに解決をつづけるという動態としての《さとり》を 得たということでしょうし この智慧をおしえたのだと考えます。

しかも このさとりは 同じく当然のごとく 共同主観( common sense )という社会的な形態において はたらくと言っていいのではないでしょうか。

悟りを得た人びとが その主観を共同化するでしょうし 一定の社会的な力(動態)となって 常識( common sense )となることがありうる。

これが わたしたちが 現象として目指す縁起共生の世界ではないでしょうか。

アマテラス語科学に裏打ちされたスサノヲ語が 望まれるでしょうし その大前提に プラス・アルファとしてのように 観想・瞑想としての智慧も望まれるということだと思われます。