caguirofie

哲学いろいろ

時代の流れはどこから来るのか

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 ☆ (あ) 自然現象を除けば 人間の生活から来ます。

 (い) 衣食住の中で食が衣住に先行するとすれば 食としては ふたつの食べ物があります。モノとしてと霊としてのふたつです。(古代インドのブラフマニズムでは ブラフマン神が食べ物であると言っているくだりがあるそうです)。

 (う) 特には 採集・漁労・狩猟による食生活――自然の草や木の実の採集や海産物のそれとしての漁労あるいは野山の動物の狩猟――から 麦や稲を栽培してその実を食べる農耕生活への変化 これは 《時代の流れ》を変えました。

 (え) もう端折りますが それぞれの生活様式において 道具が発明され用いられています。石器から 銅・青銅などの金属器 そして特には鉄の発見が 農耕の開始と同じように 大きな変化をもたらしたようです。

 (お) あとは 工業化としての第二次産業やそしてサービスとしての第三次産業をも経て 情報通信をつうじての世界的な社会生活の時代に入って来ています。

 (か) 食生活における発見や発明と そのための道具の発明 また並行して衣料や住生活にもあたらしい考えを及ぼして行った。

 (き) 最初に捉えた《霊としての食べ物》については これらの社会生活をいとなむにあたって 互いにいかに対話を持ち交通していけばよいか この主題を考える部門で発達が見られるようです。哲学・思想を基礎とする科学です。




 ★ 2 時代の流れには逆らえるのか
 ☆(く) 逆らえない場合と逆らえる場合とがあります。

 (け) 逆らえない場合というのは 時代の変化としての社会現象が あたかも人間の手に負えない台風や雷などの自然現象であるかのごとく 個人にもまたその一定の単位体としての社会にも襲いかかる場合です。

 (こ) たとえば戦争という人殺し これが 社会の風潮となってしまった場合には 容易にはその流れをただすことは出来ない相談だという場合があります。戦国時代のごとく。

 (さ) このような人ごろしが絶えないという事態は 例の霊としての食べ物が枯渇したときなのか。それとも むしろ霊としての食べ物を食べすぎて消化不良を起こし 破れかぶれになったのか。あるいは 毒入りの霊だったのか。

 (し) また 資本主義という経済行為の形式かつ総体的な様式にも ひとは逆らえないと言われます。生活にとってのモノないしその価値について 余剰が生じた場合 その余剰を元手にしてさらなる生活余剰を得ようとする行き方です。

 (す) 生活余剰を無駄にしてはならないといった倹約質素の精神からなのか それにはげむ勤勉からなのか。《とき》までが 交換価値すなわち《かね》であると見なされて行きました。

 (せ) すでに世界は 剰余価値はあたらしい剰余価値を生むためにこそあるという思想で塗り尽くされています。これは 勤勉を通り越して ガリ勉にまで到っています。

 (そ) この勤勉主義なるガリ勉思潮にさからって たとえば非営利の事業をおこなおうという場合 このような場合にも 一般には営利企業の生んだ剰余価値に支えられているようです。(寄付に頼ればそうなります。または 税金からの援助を受けるとすれば 間接的にそうなります)。 

 (た) 資本主義には ことの実質的な意味ではひとは逆らえないでしょうね。自分だけは ガリ勉のむさぼりをしないで地道に生活することは出来たとしても その生活態度を社会的におよぼすことは ほとんど無理でしょうね。

 (ち) つまり 社会の中で仮りにガリ勉資本家という人たちが もはや例外だということになったとしても まだその段階では その資本家のウゴキとしての資本主義のもたらす生活の(広い意味での)糧にみなは頼っていると思われるからです。ふたつの経済体制が共存しているといったかたちではないと思われるからです。





 ★ 3 これからの時代はどうなるか

 (て) 経済行為の形式は まだとうぶん変わらないでしょうね。最小の費用で最大の効果を得るという行為形式 あるいは 剰余があればそれを活用して再生産をすすめるという形式 これらは それとして合理的な思惟にもとづく合理的な行動であると考えられるからです。

 (と) 貨幣は そのときの交換価値を測るただの基準です。むろん 剰余価値の再生産は 貨幣にもとづく資本によっておこなわれて行くわけですが 貨幣はそのように人間が用いるものです。人間と人間との――霊としての食べ物を食べたことによって得られるところの――コミュニケーションの知恵として発明されたものでしょう。

 (な) なぜなら 普遍的な基準として作用するなら 互いに身分の差を超えて モノやサービスをめぐる等価交換を実現させることが出来るからです。《人治主義》ではないわけです。イデオロギーも関係ありません。

 (に) いま現在 流れを変えるひとつのきっかけは かつて経済学は政治経済学と呼ばれていたように 政治の方面からするささやかな変革ではないかとは考えられます。

 (ぬ) 主権在民と言うように 主権者である市民ないし市民社会に共同自治の運営をまかすという方式です。

 (ね) ムラ――市町村――が 共同自治の主体になります。これを インタムライズムと言います。しかも 外国のムラムラとも連携するというかたちにおいて インタナショナルなインタムライズムです。

 (の) 国家ないし言わゆるお二階さんは もう用済みだという思想です。国連も 利用価値があるなら 使ってやってもよいという市民主義の思想です。そこに 企業をも巻き込まなくてはならないでしょうね。

 (は)  日本の A 市は B 市や C 市と連携しさらには 外国の D 市や E 市とも協力するというインタムライズムです。互いにムラ議会議員をも互選したりします。うんぬん。・・・