caguirofie

哲学いろいろ

こんにちの世界をどのように見ているのか?

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

 1. 資本主義のグローバル化が加速度を増してすすんでいる段階だと見ます。

 先進国群が 経済成長を遂げたあと あらたに高度成長を遂げる国々が興り グローブなる地球の隅々にまであるいはその内側へも外側へも資本の論理をおよぼそうとしている段階であると。

 経済の論理としては この運動を止めることは出来ないと思われます。

 共同自治――政治ですがつまり社会のお二階から指導するようなかたちではなく むしろ一階の市民社会つまりふつうの人びとの生活とその思想が主導するかたちの自治共同――これが台頭して 経済の軌道を修正出来るかどうか。

 2. 国家が おそらくその誕生のときから千年・二千年あるいはもっと長く時を経てそろそろその終焉をむかえているのではないか。

 前項における市民社会あるいはつまりムラ(市町村)の主導による共同自治が始まるなら やがてその使命を終えて消えて行くでしょう。

 3. 思想は 生活観として再編成されていくでしょう。

 ポスト・モダンの思想のうち 構造主義は 《主体》を批判するにチカラ有り余って 産湯といっしょに赤子をも流して捨て去ってしまったかに思われます。
 関係主義はそれでよいのでしょうが その網の目のつながりのほかにその結び目もあるということ。これは やはり自由意志を中軸とする主体としての人間だと考えられます。
 網の目の結節点が 人間という一人ひとりの存在であるということ。これが 抜け落ちてしまったと考えられます。

 ソシュールが出ていますが 語におけるシニフィアンシニフィエとの結合は 決して自然のそして論理的なきづながそこにないというわけではありません。言語記号の恣意性は ただの神話であって マチガイだと考えます。詳しくは 次の質問の趣旨説明などを参照してください。

 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html
 

 4. 生活観が思想となるということは いわゆる宗教が消えます。

 現実性のない観念論としての思想は 省みられません。哲学は 可能性のあるところにはどこにでも・またどこまでも出かけて行きますから その抽象性とそれが誘因であることはなくなりません。
 けれども けっきょくのところとして 思想としての現実味のない内容つまりオシエをもった宗教は もうはっきりとお呼びではないとなります。

 じっさいの社会生活として 自分たちの共同自治が出来ないという無力感のもとには たとえインチキな宗教であっても何がしかの存在意義があったと見るべきかどうなのか? 生き続けていたことは 事実なのでしょうね。

 5. やがて ムラのオサ(長)は 市民のあいだからの当番制となりましょう。

 そういう自治体が 世界中で互いに手を結び合って 経済的にも文化的にも 安寧とそれとしての繁栄を目指して共生して行きましょう。

 政治的にも共生するのであって ムラ議会には よその人びとも議員となって――つまり互選方式で連携しあって―― 互いによりよい社会生活を目指すことでしょう。インタムライズムと言います。インタナショナルなインタムライズムです。国連は要らないか または このインタムライズムに仕える付属機関となります。