他者
たとえば ヨブという人が 旧約聖書に登場します。
このヨブは――信仰という事態にかんするかぎりで言うのですが―― 自分の信仰の境地が高いことを自覚しており この境地は 言わばみなにおすそ分けするのが 道理というものとわきまえている。そんな人間でした。
その実際の結果は 息子や娘を無くしてしまったりする不都合が自分自身に起きたり それらの逆境に落ち入ったことを友らから指摘され それはきっと悪ゆえの処罰であると妻からさえも糞味噌にバカにされたりすることでした。
なぜなら 信仰のよわき人びとが その心が癒されるためには その人たち自身より劣った地位にヨブは突き落とされるということ これが 言わばおすそわけのかたちだったわけです。そのきっかけだったと見るわけです。
つまり ヨブじしんが病気になることもそういう過程でのひとコマでした。
こういった――いささか傲慢な見方ですが――社会的な人間関係の錯綜するその仕組みとしての広い見方において捉えるならば
★ 人は他者のために生きるべきか
☆ の当為つまり《べき》論は どうも筋がちがう。こう思われます。
ひとは 社会的動物として互いに――むしろ絶対的に――関係しあっている。こう考えます。