caguirofie

哲学いろいろ

真善美について

考えるところを述べます。
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie


 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説です。

 ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。
 あらためてこの説を次のように考えてみちびきました。

 まづ ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 そこから 美学が派生するという意味です。




 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。

 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 善と言ってもよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。

 あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。




 さてひとの感性には 善も悪もありません。

 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。
 われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。

 これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。

 この反応としての感性を知性として(つまり 認識して言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。
 (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。





 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。

 そして話を端折るならば 《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞とともなる)動きだと考えます。


 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。

 けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか?

 それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。

 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。

 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれます。




 一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 そして どう生きたかで善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの――美を感じるかが千差万別になると思われます。

 すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来ます。
 早し話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 すなわち 真理と善については 十人十色と言っても あまり変わらないのではないか。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して 答えようとしたものです。





 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかは 人それぞれである。

 そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつも普遍性がある。
 こう考えることも出来ると思いますが いかがでしょう。