caguirofie

哲学いろいろ

哲学の知恵?

【Q:哲学から得られた知恵は何かありますか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8996097.html

 ★ 出来れば端的に この様な知恵に至った と言う事を教えて下さい。
 ☆ わたしは存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。

 もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。

 わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。




 この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。

 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。



 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。

 つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。



 ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。

 このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。

 善が傷つけられた存在の部分ないしその状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。





 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。

 人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。




 善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。

 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の関係を共同自治して生きる。

 この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。



 
 これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることもある。

OS1993728564-72945377942280