caguirofie

哲学いろいろ

§ あえて今 《真善美の一致》という主題について

 大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。
 人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。

 その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。
 そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。

 さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。
 人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実と真実》を含むと捉えます。
 《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。
 このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。