caguirofie

哲学いろいろ

美について(つづき)

 《普遍性》について おぎないます。
 
 ★ 「崇高」の評価を人間に普遍的だと結論していいのかどうか……それは差別を生む言説だと言えないでしょうか。
 ☆ ふたつの見方に分かれると思います。《神》を出しましたので それにかかわった《崇高》を普遍的なことがらだと見られてしまった場合には 狭い見方になると思います。いわゆる無神論にとっては 当てはまらないという反論が通ることになるのかも知れません。
 ただ ここでわたしの提出した《神》は 《真理》という想定上のなぞのことですから そこには互いに同等のかたちで《無神論者の 無神〔という神 もしくは 真理〕》も入ります。

 そうして 実際に現実に見られる普遍性というのは 
 ☆☆(回答No.9) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが千差万別になると思われます。
 かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。
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 ☆ つまり感じる美は 人それぞれですが なぜどうして美を感じるかは 人びとに共通の方程式があるというところに 普遍性があるのではないか。です。
 あるいはもっとその多様性を言うとすれば 人によっては 善の損傷が癒されるためにではなく その損傷の傷口をわざとさらに広げようとして その種のかたちに合うものに美を感じるという場合もあり得るというところです。

 ★ 宗教を哲学が超えるのは差も文明化されたように思えるでしょうが、その議論は同時に、アジアを西欧が組み敷く力学を発生させたものです。
 ☆ 《宗教教義》は 《真理》を指し示そうとしていますが 真理そのものではありません。あり得ません。表象しえないものが 真理であるからには 言葉で言い表した教義はただの代理です。真理についての仮りの表現です。
 経験合理性において理解しうるかという点では 《なぞを残した表現としての宗教〔教義〕を哲学が超える》のは とうぜんです。つねにそうです。ただし哲学は 個人の信仰(非思考の庭)を超えることは出来ません。思考が非思考を超え得ませんから。
 ★ アジアを西欧が組み敷く力学を発生させた
 ☆ 論理にもとづく説明は アジアは西欧にかなわなかった。ただし この《生きる善―→善の損傷―→損傷を癒やす〔知性のいとなみ および〕美(特に感性の問題)の問い求め―→生きる善―→・・・》という方程式は 《もののあはれを知る》こととして包括的にですが アジア人である宣長もすでに言っています。
 むしろ西欧は いまの神について いくつもの偶像を発生させました。その偶像のもとに主体をこしらえたので おかしな結果を生んだ。そのさらに結果は 無主体というもう一方の極にまで振り子を振ってしまった。言語記号の恣意性説が 元凶の神話だと考えられます。
 力学と力学を削除する力学としか 持たないのかと西欧人には問い返すことができると考えます。ただし もののあはれを知ることは エポケーに何となく似ています。後者を前者が包みこんでいるとは思います。


 * ★ こうした問題意識から、大勢を占める審美眼が生んだ差別の中で、少数派が悪趣味と呼ばれるのを知りつつもなおも抵抗してくるのが私のいう「美しい悪」です。
 ☆ つまりはわたくしの審美眼によりますと こういった力学的な推移というのは コップの中の嵐であるにすぎないのではないかというものです。つまり強いて言えば もののあはれを知るが コップになります。コップというような規定を超えています。そういう意味での――もののあはれを知るところの――《主体》あるいは《わたし》は じつは日本人も捉えて来ているのです。あとは 社会力学上の揺らぎやブレの問題になると思われます。

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 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を
     ひとりかも寝む     (伝柿本人麻呂
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 ☆ きわめてくだらない歌ですが よく読むと この《ひとり》が西欧人の言うところの《個人》に匹敵しうるかも知れない。つまりその限りで《主体》であり《わたし》であるのだと。でも確かに歌の世界を離れ世の中にあっては おれとおまえのまあまあ主義の馴れ合い交通ではあります。