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哲学いろいろ

神 信仰および宗教についての一般理論

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

 神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論

 第一章 《信じる》と《考える》を分けるということ


  ○ 真理と事実と真実  〜〜〜〜〜〜
 
   真理――信じる
   事実――考える
   真実――《信じる》+《考える(感じる)》

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 1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。

 2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。

 3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。

 4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。

 5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。

 6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。

 7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。

 8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。

 9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。

     *

ですからこの《一般理論》は 個人における信仰つまりその主観内面に言わばおさめられる・想定上の神 についての探究です。

 まだ 集団としての宗教については 何も述べていませんが 《主観における神ないしその信仰》が あつめられると 集団の宗教になる――ことは あり得ません。それは あり得ません。

 主観の内におさまる神――それは わが心なる非思考の庭として成っています またそれは 人間が生きているからには 動態です――が どうして わが主観の外に出て ほかのひとの主観と合わさってしまうことがありましょうか。





 
 もしあるとすれば それは 一般に信仰から得られた神についての観想やら思索 そしてそれらからさらに理論化した観念の体系 つまり神学なりオシエなりですね このオシエをもとにして集まるところに始まります。

 オシエをオシエとして捉えるかぎりでは つまり神にかんする神学であったとしてもすでに思想であり神をふくむ哲学であるしかないと捉える限りでは そこでは《想定》や《非合理なる飛躍》があるとじゅうぶん知っているからには その前提で勉強会やらをひらいても かまわないわけです。自由です。

 ところが このオシエを――趣旨説明欄の(7)(8)にしるしたように―― それは言わば神を説明するための補助線であるというのに それを聞かず すでに神そのものとしてしまう。そんなことをすれば 考えるによって思い込みを生むことでしかないのに これをあやまって《信じる》と言ってしまう。このマゼコゼないし錯覚が起こります。

 オシエを神とすることは ただの観念の神であり 精神錯乱であると考えます。
 思考と想像の産物が 神となってしまっている。思考と想像の範囲に神がおさまってしまう。つまり 神をすでに 自分の思うがままに欲するがままにあやつろうとしてしまう。自分たちにのみ都合のよい神ができあがってしまう。



 こういう問題を腑分けしてその内実を明らかにすることが 第一章であると考えました。