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哲学いろいろ

悪は存在しない。存在は善である。善を傷つけることは負の善 これをひと言で悪と呼ぶ。のみ。

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1. 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。という趣旨でその当否を
問います。

2. 日本人が良し悪しの問題のほかに善悪論をあつかわなければ哲学にな
らないとすれば 《悪は存在しない》という命題を西欧哲学に倣って措定す
るでしょうか。

3. ただし なるべく神論から自由に考えたい。

4. つまりたとえば 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?
と問う。

5. いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義
をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 
或る程度は決め合うことができるのではないか?


6. いで立ちを別にしつつ 悪の定義は 《善の欠如( privatio boni )》
なる命題を踏まえたい。

 



7. 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い 
この存在つまり人間存在ないしいのちを〔色をつければ よく〕保ち守るこ
とを言うのではないか?

8. その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 
心について人と話し合いができるということではないか?

9. 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷つい
たその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為
を言うのではないか?



10. コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない
続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させる
という場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではない
か?

10-1. 発言はやめないが 実質的に心〔の関係〕を閉じている状態を
《押し籠もり》と言う。

11. 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場
でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わ
なければならないか?

12. この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは お
そらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主
張に固執して話をすすめる場合ではないか?

13. ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?



      *


付録:善悪論のあらましを述べます。

§1 善でも悪でもないものごと

14. たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかと
いう選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気をつければ手で
食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。

15. あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ない
でしょう。
 
16. クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判
断とは関係ないと思われます。

17. 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うか
とも思います。
 

§2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。

18. 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》
の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同
主観が成り立つと考えられる。すなわち:

19. すなわち善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうこ
とは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。

20. たとえばウソをつくこと。これが 善を損ねることであり その損
傷行為を悪と名づける。
 
20-1. ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がし
どろもどろになったりする。これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとして
も。つまり別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることでは
ない。ただ隠すすべをこしらえただけである。

20-2. そういう共通の感覚(センスス・コムニス)が観察される。ヤ
マシサ反応は ひとがその意志で起こすものではなく いわゆる良心の成せ
るわざであろう。

21. このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるい
はイツハリあたりにあるのではないだろうか。
 
22. きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心 プラス α
としての良心やヒラメキ ――の動きは うまれつき備わった自然本性として
人間に共通であると推し測られる。ゆえに共同主観(コモンセンス)。


 
§3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか

23. 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主
観の基礎としての身つまり全体として存在じたい これも――それがなけれ
ば 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。

24. つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここ
に社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしをとうとびうやまい
合うこと あるいは 共に生きること これが善であるとなる。

25. 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるとい
うのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心であ
る。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじると
いう基礎的な意味内容である。

26. 悪の事例としては 《押し籠もり》(10-1)を提起しました。