普遍神とその〔人間による扱いにおけるあたかも〕散逸構造
1. 普遍神は 次のようである。:
① この世のものごとに関する《有る無しを超えている》。
② 経験事象に関する《因果関係から自由である》。あらゆる事象
についての原因と結果およびそれらの錯綜する対応関係を包含し
一事象ごとの因果関係から自由なのだ。
③ また 経験存在である人間の相対的な見方としての善と悪をも
超えている。《善悪の彼岸なり》と。
2. 三つの説明内容についてみて それぞれの項目が包容する双
対のごとき属性は 言わばそこでは《対称性》をたもっている。
2-1. 普遍神は 人間の判断する善や悪を超えつつ包容してい
るとすれば あたかも両者は対称性をたもっている。
3. 人間がこの普遍神と――それぞれ個別に《われ》として――
カカハリを持つ。
4. そのときには (1)における三つの事項それぞれにおいて
ふたつの要素がたもっているその内容としての対称性をやぶる。
4-1. 《神は有る》か《神は無い》かに 人間の見方にあって
は 分かれる。
4-1-1. 《有る神》派にしろ《無い神》派にしろそれぞれに
おいて 神の名が別々であり 《無い神》も人それぞれの個性によ
ってマチマチである。
4-2. 時空間の経過やあらゆる人間の行為関係の全体について
包含しているというその意味での(均衡の取れた)対称性が ひと
つの事象ごとに因果関係を取り出し人間が価値判断する(つまり裁
く)ことで やぶれる。次の事項による影響も大きい。
4-3. 価値観ないし善悪観は ほぼすべてにわたって ひとそ
れぞれでバラバラである。善悪の相対性にもとづく見方がたもつ対
称性(けんか両成敗)はやぶれ 四方八方に散逸している。
5. なお 自然科学による散逸構造の理論は いづれにしても
その散逸した状態が あたかも自然のままに自己運動を起こし あ
たらしいよき秩序を形成して行くのだと説く。
5-1. ケ・セラ・セラ路線でよいのだと。
5-2. ただし 自然科学の価値自由な知見を超えては ひょっ
とすると 神の問題がかかわってくるかも知れない・・・とは見て
いると思われる。
5-3. そのケセラセラなる道は すべての意味で オープンで
あると。うんぬん。うんぬん。
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