普遍神をめぐるメタフュジカとしての散逸構造
1. ようやく地の上に姿を現わしたヒトは この世界に・そしてそのさらに広い世界に 《ナゾの何ものか》を見つけたと思った。
2. たとえば 空に起きる放電現象。そういった自然の驚異と呼べるモノ・コトをつうじて 何ものかを見たように思う。
3. のちに《神鳴り》と呼んだ現象。これによって打たれるとヒトは神隠しに遭ってしまう。また 《稲妻や稲光そして稲つるび》と呼んだように 食糧となるその草に実を成らせてくれる。とも想像を広げて捉えた。
4. つまりこの時点で ヒトにとってものごとの《良し悪し》が捉えられてゆく。あたかも《あしき神 と よき神》と。
4-1. すでにナゾの何ものかを《普遍神》と呼ぶとすれば これが属性や要素・要因に分けられ その潜在的なチカラとして――普遍神の分身としてのように――いくつかのチカラの可能性が捉えられた。
5. つまり・ということは 初めのナゾの何ものかについてそれは そのもの自体に《良し悪し》をふくんでいるのか? と考えた。
5-1. 良し悪しを超えているとも思った。ただし そのときにも 仮りの現象としては――経験事象として神隠し(マイナス)と稲つるび(実りのプラス)とに分かれるように―― 良し悪しを帯びているとも捉えた。
6. 言葉によってプラスとマイナスとに分けたあと そこから人は どちらか一方をえらび取ることをおこなった。
7. こうして 言わばあたかも対称性がやぶられたことになる。あくまで経験事象としてだが チカラの要素ごとの性格やその可能性がしぼられてゆく。散逸してゆく。プラスとマイナスとにもそれぞれいろんな姿があるから。
8. ナゾの何ものかについては それまでに カミならカミという言葉で呼ぶことにしていたところ(それが あらかじめ言ってすでに普遍神であるが) 人びとは 何を思ったか 正負の対称性とその破れを あろうことか カミについても 当てはめることをおこなった。つまり 《あしき神 と よき神》との想像世界を作り上げた。
9. あるいは 神と呼んだこの何ものかについても じつは果たして 《有る》のか《無い》のか? それが人には分からない。分かるか分からないかが分からない。というとき・けれども この対称性を成す両様の言葉を当てはめたし 変なかたちで・つまりどちらか一方を自分の神としてあたかも排他的にえらぶようになった。人びとは 《有る神》派と《無い神》派とに分かれた。
10. かくして 《有る神》派の中では いろんな言語によってさまざまな言葉として呼び名がつけられた。オホモノヌシ。ブラフマン。アミターバ・ブッダ。ヤハヱー。・・・かくして 多様性が現実そのものであるかのごとく いわば散逸的な姿を見せるようになってゆく。
12. 《無い神》派にあっても じつは 言葉にこそ表わさないが 人によってそれぞれその思想(≒生活態度)におうじて――同じ《無い神》と呼んでいても―― さまざまな姿を成しているようだ。 人格をめぐる《個性そしてその多様性》と言うらしい。
13. はじめの《ナゾのなにものか》――に対する人間の考え――が 爆発を起こし散逸的で複雑な仕組みを持ってそれとしての構造を成して行ったと見られる。
14. 普遍神は 現実か? それとも ただの言葉のマジックか?
15. 相対性――良し悪しや有る無しや互いの個性などなど――を 絶対性なる普遍神に人間が当てはめただけのように思えるが 果たしてどうか?
1. ようやく地の上に姿を現わしたヒトは この世界に・そしてそのさらに広い世界に 《ナゾの何ものか》を見つけたと思った。
2. たとえば 空に起きる放電現象。そういった自然の驚異と呼べるモノ・コトをつうじて 何ものかを見たように思う。
3. のちに《神鳴り》と呼んだ現象。これによって打たれるとヒトは神隠しに遭ってしまう。また 《稲妻や稲光そして稲つるび》と呼んだように 食糧となるその草に実を成らせてくれる。とも捉えた。
4. つまりこの時点で ヒトにとってものごとの《良し悪し》が捉えられてゆく。あたかも《あしき神〔と呼ぶ作用〕 と よき神〔と呼ぶ作用〕》と。
4-1. すでにナゾの何ものかを《普遍神》と呼ぶとすれば これが属性や要素・要因に分けられ その潜在的なチカラとして――普遍神の分身としてのように――いくつかのチカラの可能性が捉えられた。
5. つまり 初めのナゾの何ものかは そのもの自体に《良し悪し》をふくんでいるのか? と考えた。良し悪しを超えているとも思った。ただし そのときにも 仮りの現象としては 良し悪しを帯びているとも捉えた。そこからヒトは 言葉によって分けたそのどちらか一方をえらび取った。
5-1. 本体(場ないしチカラ)とその具体的なハタラキ(作用)とに分けて 後者では 正負の対称性があらわれるとしたら それらを観念として分離させた。
5-2. こうして 言わば(変な言い方だが)対称性がやぶられたことになる。チカラの要素ごとの性格やその可能性が個々にしぼられてゆく。散逸してゆく。
6. ナゾの何ものかを いろんな可能性の中から カミならカミという言葉で呼ぶことにしたのも 可能性をしぼって対称性をやぶっていったわけだ。対称性を超えるものにたどりついたのだから 逆の順序でである。
7. あるいはつまり 神と呼んだこの何ものかについては じつは果たして 《有る》のか《無い》のか? それがヒトには分からない。両様の言葉で呼んで規定してみたのであり それだけの話になっているのみ。
7-1. だから ヒトによってそれぞれ自由に 《有る神》か《無い神》かどちらか一つをえらんだ。そのようにもあらためて〔あたかも〕対称性を破ってゆく。
7-2. けれどもこの場合は 対称性がやぶられていない。《有る神》と《無い神》とは 普遍神のもとにそのまま おさまっている。
7-3. 有神論と無神論とに分かれると思っているのは 人間の知性による錯覚である。仮象である。対称性はやぶられていない。《有ると無いと》は 普遍神にあって ひとつのツイ(対;ペア)である。
8. かくして 《有る神》派の中では いろんな言語によってさまざまな言葉として呼び名がつけられた。オホモノヌシ。ブラフマン。アミターバ・ブッダ。ヤハヱー。・・・かくして あたかも対称性はやぶれ いわば散逸的な姿を見せるようになっている。
9. 《無い神》派にあっても じつは 言葉にこそ表わされないが 人によってそれぞれその思想(≒生活態度)におうじて――同じ《無い神》と呼んでいても―― 散逸しつつさまざまな姿を成しているだろう。 人格をめぐる《個性そしてその多様性》と言うらしい。
10. はじめの《なにものか》が 爆発を起こし散逸的で多様性なる姿をとり また〔本体と作用とを分けて捉えたのちには 作用の側面においてオシへつまり宗教までを生み出し〕変に複雑に絡み合う或る種の構造を成しているかに見える。人間においてはである。人間によってである。
10-1. この神々の散逸構造は 要らない。まぼろしである。
11. 普遍神は 現実か? それともマボロシだとうたがわれる神々の宗教のほうが 現実か?