《息をするようにウソをつく》人間の起こり
――または 《虚数人間》の成り立ちについて――
――または ねむりねこ=ぶらじゅろんぬの定理――
現代韓国人がいかに気がちがっているか。これを明らかにする理論的な試みです。
ご検討・ご検証をよろしくどうぞ。
1. 次の道筋をとおって 人間が虚像化し虚数人間ができあがる。
(α) ひとは自然本性にもとづき 意志を中軸として生きている。
(β) 意志としての心がひねくれると へそが曲がる。
(γ) へそ曲がりでよいと確認しひねくれ続けると 心が裏返される。
(δ) ひとの心はリバーシブルとは言えないはずだが 裏返った心でおこなった
意志行為も あたかもふつうの意志行為と変わりないように見える。
(ε) すなわち 《虚数人間》の誕生である。
2. 以上をタトヘにおいて 座標で捉えてみる。
前提として:
x 軸: 意志のありか(意志としての思い)
y 軸: 意志の行為(思いの自己表現)
z 軸: 虚数軸。たくましき想像の世界。
(α‐1) はじめに x = 1,y = 0, z = 0 なる地点にわが意志はある。
(β‐1) ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上がる。
意志を失くしてしまい( x = 0 ) 想像力のみの世界に入る( z = i )。
(γ‐1) これが確定すると 意志のありかとして x 軸に降りて来る。
すなわち x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った。
想像の世界を去ったが 意志のありかは 想像世界をよしとしているか
ら マイナス( x = -1 )となっている。
(δ‐1) この( -1, 0, 0 )なる意志のありかから自己表現として意志行為をお
こなう( y = 1 )と たとえば ( -1, 1, 0 )なる地点で発動されるこ
とになる。
すなわち 意志行為( y 軸)のみを取れば ふつうの意志のありか
( 1, 0, 0 )からの発動・つまり( 1, 1, 0 )と較べても y 軸が プラ
スの 1 であることに変わりない。
(ε‐1) ゆえに 虚数人間が 見た目ではほとんどふつうの現実を生きているこ
ととなる。《ほとんど》に力点を置く。
違いは いわゆる動機の問題となる。それは 内面における良心の問題
であるゆえ 外から他人がとやかく言うことはかなわない。
3. さらに細かい説明として。
3-1. まづ 人間の・特に意志のあり方としてこれを 広く捉えて複素数
( a + bi )で表わすこととする。
4. (α)から(ε)までの四つないし五つの段階に応じて 次のごとくである。
4-1. (α‐1)の《 x = 1,y = 0, z = 0 なる地点》というのは:
a = 1, b = 0 でまだ意志を発動していない段階を言っている。
意志の思いのみがある( a = 1 ⇒ x = 1 )。
へそを曲げてもいない( b = 0 )。
4-2. (β‐1)の《ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上
がる》というのは 意志のありかが定まらなくなった状態である( a = 0 ⇒
x = 0 )。
4-3. その代わりに 想像力としてのあたかも代理意志なる b が 1 として登
場する。すなわち:
a = 0 〔⇒ x = 0 〕, b = 1
4-4. (γ‐1)の《 x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った》というのは
(β‐1)の z = i にさらに 同じくへその曲がりとしての i が掛け合わされる
ことによって 虚数部分の b i が 1 x i x i = -1 となることを表わす。
4-5. この -1 は とにもかくにも 実数となったわけである。よって ほん
とうは x 軸上の地点ではないはずであろうが 結果として x = -1 なる地点に
あると捉えられることになる。
4-6. これは 人間の心はひろく 現実は 寛容であることを物語るか。
4-7. 《結果として》というのは (δ‐1)で見たように 意志の思いが発動
されて意志行為となったときには その y 軸としては プラスになり ふつうの意
志行為と変わりないかたちになることを言っている。
4-8. (ε‐1)としてわれわれは 虚数人間をひろく深い心においてつまり自
然本性の共生するチカラに限りない伸び代(潜在性)を遠く見据えてそしてまた恃
んで 市民権を互いにあたえ 迎え入れている。
5. なお 嫌ったりからかったり批判したりするのは 表現の自由にもとづく。
6. また負の向きのヱクトルも ひろく愛である。負の愛も 愛――カカハリの
絶対性――である。