caguirofie

哲学いろいろ

《わたし》は 基本として数では《一》だと思われるが

ひょっとしたら 複素数として成り立っているか?

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10553768.html

1. そして 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

2. まづ すべては 推測がゆるされるとしたらのお話です。

3. ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?

この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに:

4. ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。

と言えるものであるのか? 

5. (う) しかも 《わたし》は この想像なる虚数の世界を持つとすれば
全体として 複素数なるかたちで生きている・・・のだろうか?

        *

6. 背景事情に触れて 趣旨説明を述べていきます。

7. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。

8. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさ
らですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二
つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。

9. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?
10. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情
況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが 
どういうわけか(つまりこれが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実
数としての意志決定をしぶっている。

11. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不
確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗
った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。
――ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?




12. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数とし
ての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 

13. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになりま
す。すべては 想像をめぐらしつづけている。・・・と言えばまだ恰好がついて
いるかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらには
その猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。

14. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておの
れの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが
わたしする》動態であると見ます。

15. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その
自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 

16. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つ
まりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ生きる。
1 ^ n = 1




17. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に
忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 
元のわたしの動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの
悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数
る想像一色の世界となる。《壁抜けの世界》がひろがっている。

18. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがっ
て意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力
をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすとい
うことかも知れない。
 
19. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼ
ロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?

20. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )と
なる。
 a + bi →〔 a = 0, b=1 〕→ ⇒ i ^ n = i or -1

21. これでは 社会における交通(まじはり)が成らない。成し得ない。

22. という仮説を得ました。ご教示ください。




23. 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日
本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能
はあるのではないか?

24. つまり 《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限
に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。
――かさねて ご教示を願います。