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哲学いろいろ

アダムとエワと善悪を知る木

  エワが《善悪を知る木(知恵の木)》から採って食べ夫のアダム
  にも勧め かれも食べた。
   そのあと 《楽園》の中にいたアダムに 風の吹くころ
    ――アダムよ きみは どこにいるのか?
   という《声》が聞こえた。さらにエワには
    ――エワよ あなたは何ということをしたのですか?
   と《声》がした。

 たとえばこのようにひとこまを捉えてみたとき これは――これでも 出来るだけふつうの生活に合うように表現をしてみたものですが―― そのままでわれわれに分かる内容ではないですよね?
 括弧をつけた語句は ふつうの語ではなく用法ではないでしょう。
 
 もちろん言うまでもなく初めっから比喩なのだから 《表現の問題である》ということは分かっている。だから 解釈を示したまえという問い求めであるかも知れません。
 でしたら その言葉に答えるなら 
 ○ 神とは何か?
 ☆ これが分からなければ 物語の意味も取れないのではないですか?
 神の声が聞こえるとか 《善と悪を知る木から採って食べてはいけない》と神から命じられたとか いったいどういうことなのでしょう?

 
 アダムとエワの物語は もともと アブラハムに《非思考の場(つまり 信仰)》が芽生えた時に 自分たちのおや(祖先)のことを考え そのアダムとエワのころにはそういう信仰などということがあったのかどうか これを確かめようとして得られた話です。そういうあいまいな意味での歴史ですし じんるいの起源についての探究の結果を示しています。
 つまり おおざっぱに西暦紀元前ニ千年ごろアブラハムに起きた信仰という事件にもとづいて 過去の歴史をふり返ったときに得られた物語です。
 アブラハム(初めは アブラムという名でしたが)に非思考の場が芽生えたというのは 簡単にいえば:
 1. 世の中の人びとは おのれの好き嫌いに少し毛を生やした程度のことを中身とするもろもろの《考え》について 善とそしてそうではない悪という規定をしている。果たしてこれは 何なのか? いちいち善か悪かを考えておっては 人とのあいだに間の違いがあっては めんどうだ。これの解きほぐしは 何とかならないか?――このうたがいです。

 2. これについて言わば善悪の彼岸として うたがいと諍いが晴れる時空間はあるのか?

 3. そのときアブラムは 例の《声》ですが 《ここを去って行け》と聞いた。どこへかも分からず すでに七十歳を超えていたけれども 《行けと言われたから 行った》というふうに実行しました。

 4. これが《非思考の場》です。一般に《信じる》とか《信仰》と言います。――《考える》つまり《人間の理性による経験思考》ではないという意味です。知性で考えた善あるいは悪を超えているという意味です。
 〔ちなみに これを《さかしら》と捉え これを超えて《もののあはれを知る》というところへ議論を運んだひとが日本にもいました〕。

 ☆ こうして 歴史を遡っては おやであるアダムとエワのころのことも 物語として得ました。おまけに世界の創造というおとぎ話までをも得たことになります。
 アブラハムのあとの人間としては モーセがわざわざこの《善悪の向こう側である非思考の場》について 人間の思考と同じ次元での表現としてたとえば《殺すなかれ・むさぼるなかれ》などの戒めの言葉を得ました。
 さらには その後はどうだったでしょうか? しらべてみてください。


  ――善悪の木から採って食べたアダムよ きみはどこにいるのか?
 ☆ という声を聞いたとすれば その後さらに時代を降っては 
 ○ われ考える。ゆえにわれあり。
 ☆ と堂々とのたまう人間も現われました。自分で自分に対して 《どこにいるのかったって われここにあり だ》とうそぶくようになったと――その思考能力じたいをおとしめるわけではなく そうではなく―― 言えるのでしょうね。
 その証拠に
 ○ 理性による思考の神 言いかえるなら 観念の神 この神は死んだ。
 ☆ とえらそうに言った人間もいました。そんなことは初めから分かっているものを。(観念の神 人間の想像の産物としての神々――たとえば 偉人や英雄を神的存在として祀り上げて作ったもろもろの神話の神々――は 理性による思考の産物なのですから 死ぬべきさだめです)。まあ 善悪の彼岸という方向性は打ち出したようなのですが。
 けれども昨今では この《神は死んだ》という観念を 後生大事におのれの神としてあがめている人間も けっこういるようなのではないですか? あなたの身近にも。