caguirofie

哲学いろいろ

#26

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第九章c 男の女に対する関係の問題

精神主義を 必要以上に批判したかも知れない。しかも精神主義のごとき文章を持ち出して。
ただ 今度は逆に 精神の擁護をなす番だとも考える。
精神は 精神も 時間的・偶有的・可変的・有限であることが まづ大前提である。しかしながら 神の国が地上の国と混同していて 決してそれらは互いに分け隔てられているのではないとき――したがって逆に そこでは むしろ敵対関係が生じているとも言わなければならないが―― 身体と精神に この愛の王国が宿ると見られなければならない そしてこれを把握するのは やはり精神の力によっている。
身体と精神に――肉と魂と霊に――愛の推進力が宿る 愛の推進力がはたらき給う しかるに これを主体たる人間が把握するのは(つまり そのようにして有限なる自己を 限界のない
神に関係づけうるのは) 精神のいと高き力なる霊によっている。(そう表現し定義する)。後史の人々が 愛の推進力(神なる霊)を分有しうるのは その精神によっている。これで 身体もその運動が 神の国の歴史的な進展に関係づけられうる。
言いかえると 肉の運動をとらえ 時にその放縦を指摘し 自己をよく導くのは 人間の精神であるが この精神の運動(意志・愛)が 前史から 一たん死なしめられてのように 後史の自己へ回転するものと考えられる。これは 人間の〔内面における〕内なる秘蹟であると考えられる。すでに初めに 愛の推進力(その知恵)が精神に宿るのであるが 人間の精神主義は このかよわいキリストを死なしめてのように 前史的に必然の王国とその統治術としてのように 精神の王国を建て精神の力に頼って生きたのであると思われる。この前史の精神主義の力主義が 逆に死なしめられ 後史へ回転する か弱いキリストが立ってわれわれの傷ついた精神を起こしまうのであると考えられた。
このとき 自分の弱さのゆえに摂り得なかったこの霊的な愛の力を かれは われわれの肉に混ぜてくれたと考えられた。その意味で 人間の精神の王国も 肉の王国とほかならないのだと考えられる。しかも精神が復活し かつ身体も――それは この世でとうぜんのように 年とともに朽ちてゆくべきものであるが――復活すると捉えられる。言いかえると このような議論がないとならば 人間の精神的な営為そのすべてがみな 空しいものである。だからと言って あるいは そうであるがゆえに 人はみな 生を超えた死の領域 彼岸の世界にただちに連れ去られて行ってしまうのではなく 愛の推進力は 生ける者の王であると帰結された。言いかえると この生ける存在である人間の精神の霊も 変わらざるものとして神の国の歴史的進展にあづかっていると捉えられた。これは 内なる秘蹟であるのだと。
内なる秘蹟が 生ける者に生起するとならば 内なる人の秘蹟において外なる人の――肉における外なる人の――模範として 歴史主体が生き動き存在すると考えられる。したがって

キリストはまた 私が自分の弱さのゆえに摂ることの出来なかった食物を 肉にまぜてくださった。

神の愛は処女の胎から あたかも閨から出てきた花婿のように 道をかける巨人のように踊り出た。

それは いつかご自分に服するであろう人びとの傲慢(精神主義)をいやし 愛をはぐくみながら かれらをたかぶりの座から引き降ろし ご自分のもとに引き寄せて もうそれ以上 かれらが自負心を増長させることなく かえって足もとに 自分たちと同じ皮衣をまとったかよわい神の姿を見て 弱くなり 力を失って その前にひれ伏し かわりに そのかよわい神が立ちあがって ひれ伏したかれらを起こしたまうためであった。

このようにして 精神の内なる人の秘蹟 肉における外なる人の模範が われわれの中でその前史から後史へ回転し踊り出てきたまうのであると。インランとケンソン 肉の欲求と精神の徳とが 前史・必然の国にあっては 経験的・時間的・有限なものであって これらが後史へ回転せしめられ 回転せしめられても 前史に寄留し なお経験的・時間的にわれわれは生を送るが そこではもはや 精神の力を用いて前史の母斑を支配し主導するのではなく 精神をとおして必然の王国を用いて愛の王国の歴史的な進展を享受する。
このように後史に入った人びとも 独力では何も為し得ないから あたかも変わらざる自己の精神なる存在をとらえた人も その自己を誇るのではなく 自分では自分ひとりでは何も為し得ないというその自己の弱さを誇れと言われたと考えられる。こうして 神の国が歴史的に進展するのであり この愛の推進力を またはこの愛の推進力において 誇れと。この力を 肉にまぜてくれたというのであるなら この見えざる愛の推進力は 一般に 種々のかたちを取る資本 社会的な人間の関係の中に宿ると考えられた。この社会資本が いまでは 縄文の自給自足の生活関係から解放された歴史ののち 交換経済の価値体系としてある そういう歴史の歩みであると考えられる。
また いま つまり現代に至って この社会的な総体としての交換経済関係が ちょうど各個人の前史から後史への回転をその基礎として 新しい歴史へと衣替えするであろうと予感されるのである。
その展望は――理論的な展望は―― 唯物史観が考察してきた。ただ この展望のためにわれわれは歴史するのではなく われわれが一人ひとり歴史するがゆえに 或る種の仕方で そのような将来すべき歴史の展望が持たれる。しかし この展望された将来すべき社会関係が待たれるのではなく ただいまの交換経済社会に積極的に寄留するがゆえに そうして歴史することによって 将来すべきヴィジョンも可能になる。ただし このヴィジョン あるいはヴィジョンを理論する作業が 重要であるのではなく なんならいま 歴史することによって このような展望をも理論している自己が 問題であるにほかならない。
自己はそこ以外のどこにも存在していない。言いかえると ただしくは 将来すべき社会の展望は どうでもよいのである。ほんとうに ヴィジョンは すべてヴィジョンは いまだ精神の王国の種々の像であるしかない。それは 内なる人の秘蹟 外なる人の模範を 自己の精神の力によって かずかず描いて見せようとすることにほかならない。言いかえると この精神の力が すでに後史の人のそれであるなら 理論的な展望は その個々のヴィジョンにおいて ただ現在のそれぞれ政策(政策的課題)であると言うにすぎない。
なぜなら 将来すべき社会の像とは ただ交換経済社会のその前史的な原動力である余剰の拡大再生産の議論 これによって 対抗的に促され そのように現行の経済関係への反措定によって 展望したにすぎないからである。この展望は たとえそのとおりに歴史が将来してとしても その理論者の歴史にはきわめてみすぼらしい前史の姿 言いかえると精神主義的に後史を観想する姿しかとどまらないであろう。つまり この精神の王国が回転せしめられることこそ 歴史そのものなのであるから。
だからエンゲルスが この男と女に対する関係の問題として次のように言うとき その展望であるときには意味がないのである。

したがって きたるべき資本主義的生産(交換価値経済)の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。
だが 何が付け加わるだろうか。それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。
このような人びとが出てきたばあい 彼らは 今日の人間が彼らのなすべきことだと考えていることなど 意に介さないであろう。彼らは 彼ら自身の実践と それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。
(F.エンゲルス家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8) 第二章 家族)

わたしたちの主張は 《このような新しい人びと》は すでに交換経済社会が歴史となったとき その新しい生活原理を議論し実現させて生きた人びととして 現われ出ていたという点にある。
新しい生活原理は 交換経済関係の外に位置していたのではないという点にある。この生活原理が 社会全体あるいは世界史の全体に いづれ いつ・どのように実現していくか これは 重要でないわけでなく また われわれの今の課題もそれを含むことになるであろうけれど その一点から ただいまの理論と実践がみちびかれるのではない。その意味では――その意味での限り―― エンゲルスの上の一節は われわれにとって 余分(余剰)である。こう言うと 現在の腐敗せる情況を――それがあるとするなら――固守せよと宣したことになるであろうか。(エンゲルスの展望した男女像が 精神の王国において・想像において 固守されることが恐れられる。)
(つづく→2007-05-12 - caguirofie070512)