caguirofie

哲学いろいろ

#30

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十一章a 縄文人知性 / 魔女の問題

わたしたちは 歴史的な(経験的な)歴史の淵源を スサノヲ〔とアマテラスとの関係〕の歴史に見てとり われわれの時代すなわち国家の時代のやはり淵源としての構造的な情況を 大伴家持の歌群をとおして見てみようと試みました。(むろん 神話を解釈した歴史であり 家持の歌々だけで 何がどうというのも 行き過ぎなのではありますが)。
そして 何をなすべきかは ここで説くことではなく なお 歴史の点検をすすめ その解釈を与えて議論していこうという考えです。


ヨーロッパの一つの歴史点検の書である《魔女〈上〉 (岩波文庫) La Sorcière 》(1862)でその著者のJ.ミシュレは こう始めています。

シュプレンガーは言っている(紀元1500年以前のことである)

魔女(ソルシエール)たちの異端と言うべきであって 男の妖術師(ソルシエ)たちの異端と言うべきではない。妖術師(縄文時代の・または弥生時代の 呪術師を思え――日比野)たちの存在はとるに足らない。

――またルイ十三世時代に別の者が言っている。

男の妖術師ひとりにたいして一万の魔女がいる。

《自然》が彼女たちを魔女にした。

――魔女とは 《女性》に固有の《精髄》とその気質なのである。

  • 人間の自然本性の前史の母斑が これになりうると言うのである。

女性は《妖精》として生まれる。規則正しく反復される(――必然の王国の――)気分の高揚をつうじて 女性はシビュラ(ギリシャローマ神話に現われる女予言者)である。愛によって――愛によって―― 彼女は《女魔法使い(マジシャン)》である。固有の繊細さ いたづら気(――それは しばしば気まぐれで 善意から発するものだ――)をつうじて 女性は《魔女》であり ひとに幸運をさずけ すくなくともさまざまな悩みを眠りこませ まぎらわせてやる。
(序の章)

魔女〈上〉 (岩波文庫)

魔女〈上〉 (岩波文庫)

交換経済の歴史の国家の時代という段階 これの解放は わたしが見るには このような意味をともなった女性の解放の運動にかかわっている。

  • たとえば いつまでも《寅さん》がいて欲しいというのは 人間以前の状態である。

言いかえると 女性もたしかに あのスサノヲ〔とクシナダヒメとの関係〕の歴史の――大伴家持とその妻との関係史と同じように――共同相続人であるという歴史の新たな生起の問題である。そして これが 単に外なる《足引》〔たる《魔女》《呪術》の母斑の残存〕の問題としてではなく 内なる人の秘蹟に入って 《安志比奇――前史の安き志を奇に比べる愛の後史――》となった外なる人の模範〔模範どうしの関係過程として〕の歴史でなくてはならない。これが 交換価値をとおした男の女に対する関係史の総決算の問題だと わたしには思われる。
このように愛の王国の歴史は 後史へ入った人びとのもとに 前史の愛(愛欲)の園と 混同したかたちで 存在し 進展して来たと見なければならないかのようである。
《魔女も――ということは当然 魔女を知ってこれを利用する男の問題である―― 愛によって 魔女となる》のである。この前史の愛も 《その固有の繊細さ いたづら気をつうじて ひとに幸運をさづけ 少なくともさまざまな悩みを眠りこませ まぎらわせる》力を持っている。後史は 前史と分け隔たっているのではないから この前史の愛の機能を よく用いて――同じ機能を善く用いて―― 社会的にも必然の王国を新しいかたちへ回転せしめることにあづかっている。このような歴史の進展が 隠れたところでおこなわれているのを見てみなければならない。
後史にもあった不安と空しさを 《眠りこませ まぎらわせる》のなら それは 《足引き》である。人は――つまり男も女も―― そのとき《安志比奇》の鷹とならなけれいけない。
これは 中上健次の小説の問題でもあった。等価交換による経済関係の確立されてゆく中でもし 一夫一婦形態が普遍的なものとなったのだとしたなら この婚姻からさらに普遍的な売淫へ向かうと一つの傾向を指摘したマルクスの問題であったし すでに触れてエンゲルスのそれでもあった。いや たわむれることなかれ。時と所を問わず われわれ誰もの直面する問題である。
ただちに 上に触れたミシュレの本から一節を拾い出して読もう。よく問題の所在を――解放の方向をも――示していると思われる。

悪魔がこの女を所有している。しかしまだほんとうは所有していない。この女はやはりこの女のままなのであり この女として身を保持している。この女は悪霊のものでもなく 神のものでもない。たしかに悪霊は女のうちに侵入し 希薄な空気のなかで体中を駆けめぐることができる。ところが彼はまだ 何ひとつ所有してはいないのである。というのは 彼は意志というものをもたないからだ。
女はとりつかれている。悪魔が体中にいる。それなのに女は 《悪魔》のものではない。ときどき彼は 女にひどい虐待を加える。がそれでも 何の結果もひき出すことができないのだ。彼は相手の胸に 腹に 腹わたに 燃える炭火を押しつける。女はのけぞり 身をよじらす。しかしそれでもまだこう言うのだ。
――いいえ 残忍なひと わたしはわたしのままでいる。
ミシュレ魔女〈上〉 (岩波文庫) 5.悪魔にとりつかれる)

この短くまとまった一節の文章が ことの本質を つまり《足引き》と《安志比奇》との差異を――つまりそれは 内容・機能を時に同じくしつつ 方向・向きとその力の差異を――よく捉えていると思われた。
しかし――ジュル・ミシュレも繰り返したごとく―― 《自然がかのじょを魔女とする》のである。この人間の自然本性は いわば縄文人の・自覚のなかった自給自足主体の生活原理であって 自給自足主体性を自覚する交換経済人として弥生時代〔以降〕にあって もとの旧い生活原理へと足を引っぱる力である。これが なくなったとは言わない。解放されたのである。自然本性がなくなったわけではない。これを善く用いるのである。
魔女 つまり交換経済主体であることから逃げて 旧い呪術生活者へと――ほんとうは誰もすでにそのまま戻るわけではないのに――引きずり込もうとする魔女は しかし すでにかのじょ自身そのように 呪術的自給自足から解放されている。ただ だれかをそこへ眠り込ませうるなら〔自己の支配欲は満たされるであろう〕と考え この機会をねらっている存在である。
ところが われわれの誰もが やはり縄文人の原史から――つまり日本へ弥生時代よりのちに渡って来た人びとも その元いた土地では さかのぼるなら 呪術的自給自足生活者であった から―― 出て来た存在でもある。
魔女の傾眠の術をほんとうには持っていない。そのとき むしろわれわれは かのじょと 男と女の関係において 一つの人格であると考えなければいけない。この前史にやはり寄留しているのである。誰か純粋な交換経済主体(ホモ・エコノミクス)であるだろうか。誰かまた 神であるだろうか。スサノヲが愛によって歴史主体となったなら 魔女は 愛によってしか 魔女になることは出来ない。
このような交換経済社会における魔女〔との関係〕の問題を 犬養道子は次のような角度から説き明かしている。少々ながいけれども 一気に掲げる。

――が 女性は男性のようにすべて 職につくべきなのか。職をもつことが《解放》なのか。そもそもウィメン・リブの《リベレイション》(解放)とは 一体全体 何からの解放なのか。
一九七四年秋 フランスの新政権に 進歩的な雑誌の編集長であったフランソワーズ・ジロー女史が加わった。女性問題担当大臣としてであり 彼女の就任後の第一声は

こんな 名前を持つ役所と大臣とを一日も早くなくすことこそ私の使命だ。

という内容のものであった。過激派ウィメン・リブの連中などは 当然 彼女の一挙手一投足に注目した。
そして十月の末であったか 丸々二時間近くのテレビ公開討論を彼女は行なって 《女性解放》を《何からの解放と考えるか》について明らかにした。私はそのテレビを最後まで注意深く見ていたが 深い感銘と共に気づかされたのは なるほどローマ法典をひきつぎナポレオン法典を生み出した法国家フランスの代表的知性人だという一事であった。
彼女はまづ ていねいに緻密に フランス国法を 社会法を 法人法〔等々〕をしらべ上げたのである。そして 女性《解放》(彼女はこの言葉を好きでないとつねに言っている)とは 母子家庭や 未亡人や 腕に職のなきまま老いてしまった独身女性などを対象とする法の改正・改良が第一。
第二には この変化極まりなき世代と世界において《何ごとが起こっても》ひとりだち出来る職能訓練の場と費用とを公正に《すべての女性に》与える法の確立。第三には《安心して子女に家庭教育を与え得る》能力と経済(これは夫のサラリーも入る)とスペースの確保に役立つ立法だと語った。
《しかし》と加えて 《それら法を支える税金はだれが出しているのか そこをハッキリ考えて甘えるな》と結んだ。
私は中々よいことを言うと思って感心した。実際 リブ・リブと唱える多くの女性たちは 《何からの解放》で そのリブを支える金はいったいだれが出すものなのか そんなことは対して考えていないのである。
しかし家庭という人間社会の最根源の単位(ユニット)を守り育み栄えさせてゆく上の仕事は むしろ家政であって家事はその家政の中の一事にすぎぬ。
家政なき家庭は必ず崩壊する。しかもベルリン大学未来学研究室のロベルト・コンク博士が指摘するように このメカニズム一点ばりの《狂》の字すらあてはめ得る超巨大非人間的現代とそれにつづく近い未来において 《人間》を守る大事業のさいごの拠点は 《家庭でしかない》のである。
家事を出来るだけ合理化する ということと 家政まで家庭まで放り投げるということとは全くべつの問題なのである。家事からのリブは 家政からのリブではない。妻や母が家庭経済を助けるべくまた 己れを開花させるべく職を持つということは 《家政からのリブ》を意味しはしないのであって もし《家政からのリブ》までリブ論者が考えているとするなら それは《女性解放》ではなくて 《人間社会破壊論》なのである。
犬養道子男対女 (1975年)  〈ホモ・サピエンス〉)

  • かつて このようなウィメンズ・リブといった運動があり このような議論がなされました。

   ***

(つづく)