caguirofie

哲学いろいろ

#43

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十四章d 補論――遅れたインタメッツォ――

ブラック・ホールというものを 自己の内なるホワイト・テンプルだと言いかえたことについて説明します。
引用したヨハネ福音の文章の中でその後半は 原理が 父と子とそして聖霊との三位一体であることを イエスの語った言葉として示している。自然科学が 宇宙ないしこの世の経験世界をとおして知った原理(法則)を もしそのようにただ部分から知るものとして示すだけであるとすると ヨハネの科学(ディシプリン)は この原理を 肉において捉えよう・言いかえると この真理の力がわれわれの内に宿る・すなわち われわれはこの真理を分有して生きることになることを 証言したものであった。
《子はこの世に来た》《父と子は その真理の霊を この世に派遣した》と言われることについて。別の使徒(外交官;ディサイプルであるところの)であるパウロ

それとも あなたたちは知らないのですか。あなたたちの体は 神から受けた聖霊があなたたちの内に宿っておられる住まいであり あなたたちはもはや自分自身のものではないことを。
(コリント前書6:19)

と言うことについて。
もっとも 《この世に来た。言葉は肉と成った》と言っても それは――かれが人間であったことを別にすると――われわれの感覚が捉えるところの現実ではありません。感覚的な相互作用の元にはたらき給う原理であることにちがいはありません。自然科学がこれを捉えて もし疎外(あるいは表現)し 抽象的なものとしてしまうとしたなら それは ちょうど縄文の自給自足生活が弥生の交換経済社会となったのと同じように 真理の力(神の知識)が 交換価値としての知識にすり替えられたことをしか意味しません。
このゆえに 原理は あたかもその内部で三つのペルソナ(位格・実体)の一つの本質(存在)であるということ・つまり 関係的に三つのペルソナのもとの本質的に一つの原理であるという三位一体なるものとして 了解し表現し捉えようとして伝えられた。
ブラック・ホール付近で光が曲がるということ ちょうどこれと同じように つまりこのような部分から知るときと同じように 科学(サイエンス)の部分的な真実そのものが 原理だよとは言わないようにという意味で この学問(ディシプリン)の真実の土台が 人間に宿ったところの聖霊 つまり神から来て神である聖霊(つまり愛)の人間におけるホワイト・テンプルなのであることを 告知するという歴史が起こった。これによって スサノヲの歴史も 人間が理性的に言葉を通して知解し 知解しつつ生きるという現実が指し示された。聖霊が 父と子と別の原理ではない 別の本質ではないと伝えられた。
言いかえると 聖霊の宿る人間のホワイト・テンプル付近では 社会的な電磁の相互作用など それが 偽りの光の天使であるなら つまり 科学的にしてかつ呪術による幻想の力であるなら 曲がって横切るであろう。重力の法則によるかのような人間の意志が 科学を用いるその仕方 これが曲がって来た光であるなら その曲がりが・虚偽が ホワイト・テンプルとの接触によって 明らかなものとなって現われるであろう。

わたしたちのことを人間的な動機で動いていると見なしている連中に対しては

  • 歴史的な知性への疑いによって この世に新しいものは何もなく 正しい人はひとりもいない(そのこと自体は 正しい認識である)として 身体における歴史知性の実践ではなく この身体を空気のようなものに変え 雲の上へアマアガリし 社会的な罪の共同自治を主宰しようとする人びと これらの人びとに対しては

勇敢に立ち向かうつもりです。
パウロ:コリント後書10:2)

というように たしかにわれわれも この世では義とされないのであるから あなたがたは義人ではないという訴訟を起こされるかも知れない。ホワイト・テンプルといま言っているわたしたちも この訴えを起こされるかも知れない。しかも この訴えの光は そのようにまっすぐ走って来るようでいて 曲がったところから発せられている。なぜなら われわれは 自分の義によって原理の前に立つのではなく キリストの謙虚の義によって 原理にすがり生きているのであるから そのような訴えは 的をはずれている。したがって これに対しては 勇敢に立ち向かい むしろ自己の内的に 虚偽を棄て ホワイト・テンプルの確立に向かう そのことによって かれらの訴える光は われらを逸れて 曲がってゆくであろう。
むしろ そのかれらの光の曲がっていること自体が 明らかにされていくであろう。この世に正しい人はひとりもいないという弱さを誇るようにして そうして この世にあっては朽ちるべき身体が精神を抑圧している限り義とはされないにかかわらず 前史の相互作用の光の訴えが交わされ(回避され) 罪の取り除かれたごとく 義を愛する者となるであろう。これは ホワイト・テンプル つまり 神に由来する力によることである。ここに そしてこのようにわれわれは 歴史していなければならないし 歴史しているであろう。この新しい歴史は 時として 実現します。
これによって 誰か 《言葉が肉となった》ということを 原理たるキリストが 人間の感覚そのものとなったのだと解釈するであろうか。あるいは逆に 霊の宿るホワイト・テンプルの確立と言ったからといって ちょうどわれわれが 肉から霊となるのだと――精神主義者が説くように――言うほど 愚かにも神がかりするであろうか。しかし 前史の慣性の世界 必然の王国は これを向き変え 回避してのごとく われわれは後史に入って霊の人として生きると表現する。必ずしも別様に 非慣性系の世界の人となるのでもなく 慣性系および非慣性系のこの世の中になお寄留して その原理を見まつりこれを享受して生きる。
後史(現代では時に 非慣性系の科学の眼)も 本史(原理)そのものではないから。けれども そこには要塞をも破壊するほどの 神に由来する力が宿る またわれわれは この力に寄り縋る 寄りすがる弱さを誇ろうと聞いたのである。これが われわれの社会力学的な一般相対論である。《から(関係)》の歴史過程への井戸端会議なのである。原理の弱さは 人間の強さよりも強い。じっさい 一般に科学者(サイエンティスト)はそのことを理解している。
(つづく→2007-05-29 - caguirofie070529)