caguirofie

哲学いろいろ

#24

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第九章a 男の女に対する関係の問題

スサノヲという一個の存在とその一生涯に 《歴史》が生起したのである。
呪術的な自給自足生活から交換経済へ入って 交換関係社会のなかで《歴史》的な自給自足主体となった。この愛の王国の市民であることは 一個の人間において生起する。しかしながら 交換価値をとおした――少なくとも モノなど交換価値をとおして――社会関係の中から この後史に立ったいわば独立主観(主体)が生起するのであるから かれは 人との関係を問題にしうる。
その社会的な舞台は おおむね おおきく言って国家の問題にたどりつくということであった。これを 身近に見ようと思えば ひとりの男のひとりの女に対する関係――それは 動態――においてである。スサノヲのクシナダヒメに対する関係 オホクニヌシとスセリヒメとの関係 イザナキ・イザナミの関係等々。

  • ちなみに 宣教師が男で独身であったことは 基本的に独立主観が 《歴史》主体であり そこですでに完結していることを表わしたにすぎぬ。

言いかえると 自己が全体として 相手の女性が全体として 経済生活じょうと交換価値の関係の中で むしろ余剰(その価値)を用いつつ 関係を結びうるかどうかの問題。逆に 男性にしろ女性にしろ その何らかの余剰(遊び)をもって 人間と人間との関係が 経済じょうの物象的な交換価値関係そのものとなってはならない だから しばしばこうなってしまいうることを前提として意味している。また なってしまいえた時に これを前史として どう後史へ回転せしめられるかが問題である。これは 基本的に男の側の問題であり そう言ったときに同時に 女の側の問題である。
言いかえると 愛の王国の市民である独立主観には――あの《歴史》そのものには―― 性は存在しない。人間は いづれかの性として存在するが 性の存在しない歴史領域を持っている。単純に割り切るなら 性の関係は必然の王国であり 性の存在しない歴史主体は 自由の問題である。しかしながら 必然の王国たる前史を――人は前史に対して死んだのであるが―― ただちに離れようとしないということであった。(それは この世での生涯をつうじて 有効であろう)。
ここで 性の存在しない・後史に立った人にも 性の関係の歴史が 無縁となったのではない。また この一独立主観に性の存在しない領域と性関係に引きずられる領域とが あたかも別々に分かれて存在うるのではない。ちょうどそれは 愛の王国と地上の国とが 互いに入り組みあい混同しているようにである。
愛の王国の市民は 愛によって恐れや疑惑を取り除かれているにもかかわらず それから恐れや不安のもたらされる欲求・欲望と 真にかかわっている。精神の王国に連れて行かれないゆえに この前史に寄留して 性の主体としても 〔日から日へ過程的な解決を予感しつつ〕 生きている。かれ(かのじょ)に 性がなくなったわけではない。
国家 つまり国家形態によって呪術的自給自足や罪や非行や前史的愛やを共同自治する人びとは その統治者であることによって むしろ性の関係を解放した者である。国家が仮象的な社会形態であるなら それは幻想的な解放だが その意味での限りで 性の関係など前史の必然の王国からかれらは 解放されている。かれらは むしろ交換価値関係そのものの中にいるのではなく これを超えてこれを統治する解放者の立ち場にいる。われわれは これを後史とはよう言わないのであるが 独立主観者は その前史とのかかわり これを 性の関係(その歴史)として示さなければならない。その後史を生きなければならない。これは 良心のためにである。良心のためにとは 他者の良心のためにである。他者の良心のためにとは 人を愛させるためにである。ただ 人が愛するなら この愛はすでに 愛の王国の推進力をやどしている。この推進力の歴史が 一個の独立主観にとっての歴史(後史)でもあり 男の女に対する関係の歴史でもある。
わたしの筆の力が及ばざるゆえに ここで アウグスティヌスを引くことをゆるされよ。

キリスト(愛の推進力・その知恵)はまた 私が自分の弱さのゆえにとることの出来なかった食物に肉をまぜてくださいましたが――みことば(キリスト・イエス)は肉となりたまうたのですから―― それは あなた(愛の推進力=王)が万物をそれによってお造りになった(前史から後史へ回転せしめ生みたまうた)知恵が 幼い私たちの乳となるためでした。
アウグスティヌス:告白 7・18)

図式的に言うと 前史の愛(欲求・欲望)に 本史の愛が宿りたまうと言う。スサノヲは 前史の愛に死なしめられ 本史の愛によって 後史の愛に立った。愛の王国に性は存在せず かつ 後史の人間も 前史の性の関係とこの地上でかかわっている。しかしそれは 内へ向き変えられたかたち 前史の海を木(十字架)の船に乗って航くかたち 言いかえると 必然の王国を超えて罪が取り除かれた(覆われた)かたちにおいてである。われわれはこのような解放の神秘を 時に応じて語ってゆくことがある。すすむ。


ところで 小説家・中上健次は 前史の王国なかんづく性の必然の王国を その中心主題として 作品を発表している。われわれはこの現代において考える。かれは そのような作品は 出るべくして出たと。つまり 交換経済――における性の関係――の歴史的な総決算の過程においてである。
神秘を語ったから 具体的にと言うわけではないが中上の小説をここで読んでみなければならない。かれの小説の出現は 日本人の歴史にかかわる。
枯木灘 (河出文庫 102A)》などの代表作ではないが 芥川賞を受賞したものでもある《岬 (文春文庫 な 4-1)》では こう描いている。ストーリを紹介することはしないが

彼は その男(父のこと)とよく似ていた。彼は 時々思った。彼の体の中にも 女と見れば 子持ちの後家であろうが 女郎であろうが 娘であろうが手を出す 好色の 淫乱の血が流れている。人を足蹴にする。友人を裏切る。人の弱みを突いて 乗じる。
中上健次岬 (文春文庫 な 4-1)

まづ必然の王国をこうおさえて

幌付きのトラックのむこうに 岬と海が見える。日が雲でおおわれる。墓地の前の崖っぷちの真下は 竹林だった。風に波打ち 色が変わった。その下に 遮るものもなく 芝生がつづく。岬の突端が ちょうど矢尻の形をして 海に喰い込んでいる。海も 青緑だった。岬の黒っぽい岩に波が打ちよせ しぶく。
・・・
彼はうなづいた。女の手が彼の性器にのびた。海にくい込んだ矢尻のような岬を思い浮かべた。もっと盛りあがり 高くなれと思った。海など裂いてしまえ。女の手は 彼の勃起した性器をつかみ 力を入れてにぎる。《男の人を見るたんびに 罪つくりなこんなもん持って しんどないかな と思うわあ ふりまわされてえ》
不意に 女を抱きしめた。《痛ァ》と女は言った。女をひっくり返し 上になった。それがこの商売で習い性となったものか 女は膝を立てて腰を浮かせた。《いきなり なんやのん。サービスしたろかと言うとるんやのに》と女は言った。それからわらい 科(しな)をつくり 腰を動かした。《そんなにきつうに 抱きしめんかてえ》
この女は妹だ 確かにそうだと思った。女と彼の心臓が どきどき鳴っているのがわかった。愛しい 愛しい と言っていた。獣のように尻をふりたて なおかつ愛しいと思う自分を どうすればよいのか 自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして 女の心臓の中にのめり込ませたい くっつけ こすりあわせたいと思った。女は声をあげた。汗が吹き出ていた。おまえの兄だ あの男
 いまはじめて言うあの父親の おれたちはまぎれもない子供が。性器が心臓ならば一番よかった いや 彼は 胸をかき裂き 五体をかけめぐるあの男の血を 眼を閉じ 身をゆすり声をあげる妹に みせてやりたいと思った。今日から おれの体は獣のにおいがする。安雄のように わきがのにおいがする。酔漢なのだろうか。誰かが遠くどなり叫んでいるのが彼にきこえた。苦しくてたまらないように 眼を閉じたまま 女は 涙のように 汗の玉がくっついていた。いま あの男の血があふれる と彼は思った。
中上健次:同上)

  • これを取り上げようと思ったときは 変な勇気が要ったが いま読むと 大した内容ではないと思う。二十年以上の月日が経っている。中味もそれほどの大した作品ではないと思うので その点 失敗だったかも知れない。

問題は 商売女であるからと言うので 交換経済の圧倒に あるのではない。好色 淫乱という必然の王国の愛そのものにあるのでもない。また 近親相姦は 呪術的な自給自足社会の――社会とは 人間関係のことだが――問題であり ここでは いまでは この縄文人生活様式は(むろん そこですべてが 近親相姦であったというのではないが) 過去である。残存することと そのものが基調であることとは ちがう。
問題は――もちろん交換経済関係に 根ざすというよりは それへの・あるいはそれそのものの 疑い つまり考えるゆえに存在するという疑い 疑いなる知性 これにもあるのだが 問題は―― 交換関係というほどに むしろ 性が 男と女とで倒錯してしまうことにある。そしてこのことは いま気づくとき すでに そこで 性の存在しない愛に自己が到来し 倒錯は解除されているという本質=歴史なのである。じつに 性関係の倒錯とは 交換価値体系の統治象徴としての交換価値それである。異性愛が同性愛になることを言うのではない。
じつに性関係の転倒とは 精神の王国の問題である。精神の王国が 肉の国 必然の前史と変わりないという事実にほかならない。中上健次は これに抵抗して 精神の王国を 肉の関係として 精神的に(つまり 言葉の上での作品として) 描いてみせたのである。
交換経済関係が その圧倒が ただちに 解消してしまうわけではない。それは 交換経済社会に 自給自足的な縄文人がいなくなってしまうのではないということと等しい。しかい 愛の王国は見うるのである。その市民となるという歴史は 生起するのである。これを疑ってはならない。じつに人は 性の存在しないという自己によって 性の主体としても存在する。
ところが 国家という交換価値体系の元締めが 交換経済主体をおおうとき このときむしろ人は 国家を幻想の共同であると知っているがゆえに このおおいを取り払ってのように しかしじつに精神の王国を夢見る。
これは 交換経済関係の圧倒によるのでは必ずしもない。精神の弱さ したがって 肉(魂)の弱さによる。不正を愛するわけではないが 不正を不正だと認めることを 精神において精神の中で思っている。これは 内へ向き変えられたのではなく 外の不正を内でそう認め思っているにすぎない。そのことを知っていれば わたしは常識人である もうそれでよいと思った。なお 国家は かれをおおっているのである。これが 性の倒錯である。
性は肉体の問題でもあるのに 精神の王国において思っている。

  • ちなみに 現代では 《ヴァーチャルな現実》などと言うようになっている。

性は 性の存在しない自己によって 自己が 肉体においてもかかわって生きるのに これを 肉体ではない精神において認め 肉体の性の関係によって 性の存在しない後史を あえぎ求めている。これが 性の転倒である。精神的後史によって 前史の性を追い求めている。人は 交換経済関係の圧倒の中にあっても ただちに これに抗議できる。そしてその人は 前史の必然を超えている。それが 過程的な解決であるからと言って 幽霊による解放であるときみは 反論することが出来ない。反論するのではなく 性の倒錯をきみはみづからただちに解放せよ。だから 《性器と心臓が逆だ》と言うのだ。あるいは 精神の王国というほどの肉の国で 交換価値の象徴つまる国家を経由して 逆ではないのだ。
もし――もし―― 交換経済社会の中ですでに過去となっている縄文人のような自給自足生活によって――そこでの性の関係は 近親婚がたしかに見られた―― 性の存在しない自己による歴史主体が 性にかかわる契機を見ようとしているとならば それは 国家に抗議しているのである。交換価値の自由経済は その交換関係社会そのものにおいて 自給自足(そのような共同自治)するであろう だから これらの総体を もう一段高いところで統治する国家 これは 不必要・有害であると 叫んでいるのだ。ただ この叫びは 前史の愛であり この愛が見放されてはじめて きみたちは後史に立つであろう。性の倒錯を解放するであろう。
淫乱とも呼ばれる肉の血――肉とは魂でもある。魂は精神の霊によって解放される―― これを 性の存在しない自己に立った人間も 動物と共有しないということはない。ただ 肉の情念には死ぬであろうと聞く。
これは 神秘ではないが もし神秘であってもこの神秘を見ないほうが もっと神秘であり不思議である。


    ***
(つづく)