caguirofie

哲学いろいろ

#27

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十章a 旅立ち

《§1:神の国について》が 大前提であり 《§2・3:スサノヲおよびオホクニヌシのミコトの物語》は 序論であり 大前提にかんするその基本史ないし《回転》の方程式です。
《§6・7:歴史を隠れたところで点検し明るみに出す》二つの議論は 方法の具体的な実践の問題。その基本的な作業形式。《§8:国家の問題》と《§9:男の女に対する関係の問題》 これらふたつは 方法(生活原理)にかんする二つの基軸であり 論点をなしている。
わたしは これらで かなり 自由にさまざまな分野に出発することができると思う。けっこうこれからの議論のあらためての前提になったのではないかと考える。言いかえると その意味での新しい時代は すでに自己制約的な形式を持ってしまった。だから逆に言いかえると この既定の枠組み(前提)が どれだけ自由な生活に耐えるか・動態的で自由な生活原理であるのか この議論へと移行するものと思われる。この視点から 日本史の点検があらためて開始されると思うのである。そういう歴史過程であるだろう。
言いかえると 神を表象しつつも すでに表現において この言葉を出すことなく 新しい生活原理として どのように自由であり生きた動態であるか。あるいは すでに日本語として《神》の語は 実際である(あった)から それが触れられるとき 上の生活原理によって どのように捉えられるか。過去にさかのぼれば より一層 カミの語は用いられているわけであるが その意味内容を点検しつつ 歴史を吟味することが伴なってくるとも考えられる。このような解釈の作業が ここでの問題である。


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神の語を用いないと言った矢先から この禁を破って いま 次のような議論を見てみたいと思う。きわめて断片的に抜き書きしますが そのつぐないは後でします。

栗本 ・・・科学哲学でいうといつも神とか愛とかの問題が出てきちゃう連中ね 彼らは科学哲学をシビアーにやって最後に神とか愛だとか行っちゃうでしょ。カール・ポランニーの弟のマイクル・ポランニーもそうだけれど シモーヌ・ヴェイユも ついに最後に神に祈って死んじゃうね。あれは何でしょうか。
柄谷 それは 何て言うか形式体系を作ると自己言及性の問題が出てきて それを解決しようと思えば神を持ってくるほかないんですね。それはキルケゴールヘーゲルに反対して《キリスト教とはパラドックスだ》といったように ある点でぱっと飛躍するほかないような問題なのです。
栗本慎一郎今村仁司・吾郷健二・室田武柄谷行人社会科学の変換を求めて―<経済学>批判を中心に (1983年)1983・6・1発行 〈3 《思考》のパラドックス〉〔1981年の座談会の再録〕)

前後の文脈そして議論の中の概念および人物にかんするここでの共通の了解 これらすべてを端折ってすすめるとすれば――強引にでもそうするならば―― 言われている問題は 《神に行っちゃう / 神を持ってくる》ことには全くなくて 方法・生活原理のそれに関係している。なぜなら 《神に祈って》にしろ祈らずにしろ 人はみな《死んじゃう》から。
《神を持ってくる》・来ないは 問題ではない。《自己言及性》の問題が出て来ない生活(またその原理)は生活ではないから。そうでない生活があるというなら おしえて欲しい。人は初めから《飛躍》している。いや それが ふつうの生活であるのに 現代人は 逆の順序で 初めに飛躍して――つまりもしくは 萎縮し凝縮して――しまっている。これに気づかずに 反対の側から 生活をながめているかのようである。
こう言って われわれの議論を――井戸端会議を――つづけて行くなら 上に述べた《神の国について》の大前提が われわれを制約するような枠組みになったかのごとくでいて いわば動態的な生きた舞台であることを証明できるはづである。はじめに《自己言及性――いわば自己の知恵の同一にとどまること――》を問うているゆえに 《形式体系〔なら形式体系としての井戸端会議〕》を形成してゆく。すすむ。だれも この《体系》をいわば蚕になってのようにその繭としてその中に閉じこもるわけではあるまい。
すでに蝶になり《飛躍》しているゆえに――生活人はみなそうなのである―― わたしの前史の繭はこうであったと自由に述べあうのである。われらは 後史から前史を問い直している。かれらは 後史を精神の王国として じっさいには前史にあって まだ繭の中の蚕でいたいと言っている。《普通の》学者は 神を持ち出さないが すでに後史に立って(立とうとして)自己の守備範囲で研究をつづけている。《良い》学者は あたかも愚か者になってのように 神を持ち出すことも辞さない。《悪い》学者は これらの学者のあるいは生活人の足をひっぱる。疑いのアマテラス。生活人がごく常識としておこなっているあの《命がけの跳躍》 これをまだ悪い学者は 恐れている。知らないわけではなく ただ怖いのである。上の本の中で柄谷行人が触れているのように 《不完全性定理(クルト・ゲーデル)》などというものを《最後に持ち出して来て》 これに《祈ってついに死んじゃう》のです。
これで 《神の国について》の議論――議論――の位置がわれわれにとってどうであるか 見当をつけることが出来たかと思う。人は誰も 神がかりになってはいけない。そしてこのことは むしろ日本人の歴史が証明している。つまり 時にあの疑いのアマテラスが 日本の国にかんして それは《神国》だと議論し 人びとにおしえさとそうとしたときに 人びとはこれを信じるふりをして どうにかしてかれらの疑いを晴らしてあげようと――死を覚悟してさえ―― あわれみの職務を引き受けたのです。かれらは 神がかりから もっとも自由であった。縄文人の呪術宗教世界から解放されていた。
みづからもすでに解放されているのに 人びとはまだ無知でインランで解放されていないと言い張るのは 悪いアマテラスや学者だというのが 相場です。これも 日本人の歴史です。
この日本人の《神州は不滅》なのです。この貴い犠牲を生かして われわれは愛の王国に立たなければいけない。誰か日本人をつまり自己を愛さざるべき。これを国粋主義だと言う人あらば 吾人はもはや死ぬべき。《神に祈ろう》とも思わない。――もちろん これらは《パラドックス》としても言っているのであるが。
《大東亜――いな 地球世界――共栄圏》また《八紘一宇――世界(八紘)は一家(一宇) 人類みな兄弟 だから 人びとは自由に議論をし その限りで争う――》の歴史の明け方。そして これに対して 日本は《日の本》だから 最優秀の民族だと言い張るのは――そのように神がかりになるのは―― 国粋主義。《二十一世紀は 日本の世紀だ》と言ったのは わたしたち日本人ではない。要するに したがって 卑屈になってはいけない。という飛躍した議論は むしろ声に出して言う必要はなく すでにはじめに正当にも飛躍した生活の心の中に刻まれている。
この日本人の心の足を引っぱる人びとに対しては――かれらは学問的権威をもってそうする―― われらは正当にもあのあわれみの職務に促されてのように 暖かく包んであげよう。
ところが 誰も人は 無知のつばさを広げてのように飛躍して行くであってもならない。そのためには 日本人の歴史を まづ自己の民族の歴史を 知る必要がある。これはわれわれの心に要請されている。そうして正当にも人は ここで飛躍するのです。われわれが無知だから 知恵を知識をあたえたまえと。
そうして 言わずもがなの議論を添えるなら 《みなが学者だろうか みなが理論家だろうか》とは同じく正当にも聞かれるべきであるから 或る人には 知恵の宝がふんだんにあふれている。また或る人は 知識(知解能力)に長けている。しかしまた或る人は その愛の力がこれらの能力を凌駕するのです。ただ これは きざな部分は ユダヤ人の遺した聖書に その隠れた部分は わが古事記によく表現されているということ。とわたしは思います。

  • また この箇所の言い回しは アウグスティヌスから借りています。もうどこにその表現があったか わからなくなっていて すぐには出典箇所が特定できない。
  • もう少し具体的な経験で言うと 聖書はその表現がきざで嫌であった が アウグスティヌスをとおして親しめるようになった。そしてこの聖書をとおして 古事記の隠れた部分の歴史が――人間の主体的な歴史が――よく見えるようになった。もしこの言明が役に立つとならば・・・。


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(つづく→2007-05-13 - caguirofie070513)