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哲学いろいろ

#28

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十章b 旅立ち

天平勝宝二(750)年三月一日の暮(ゆふべ)に 春の苑の桃李(ももすもも)の花を眺矚(なが)めて》 大伴宿禰家持は こう詠んだ。

春の苑 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花 した照る道に出で立つ少女(をとめ)
春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立をとめ

  • 《をとめ》の漢字は 二字とも女偏に感と需。

万葉集 巻十九・4139番)
わが園の 李の花か 庭に降る はだれのいまだ残りたるかも
吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遺在可母
(十九・4140)

《した照る》は 《色美しく映える》または《赤く輝く》意。《はだれ》は 《はらはらと降る雪》と解される。
いま越中守である家持は この三月一日二日にかけて 国庁付近の風土を詠んで一気に十二首の短歌をつくっている。その最初の二首である。
これらの歌は われわれの旅立ちにかんれんしている。前歌は 《出立》にあたって《真っ赤に染まった道》を見ている。後歌は 《波太礼能未 遺在可母》と言って 前史の母斑を見逃していない。出発すべき後史の道は 《桃(もも=百)の花》を見ている。前史の母斑には 《李(すもも=酢桃)の花》を。これが 新しき《春苑》であり《吾園》だと言うのである。
万葉集第二十巻末つまり全巻最後の歌に家持の

新しく年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
(二十・4516)

を載せて終わっているのと対応させていま 考えているのだが おそらく この越中のくにでの歌群が 基本的な旅立ちのうたであって 家持じしん 最後までこれを念頭においていたのではないと推測を立てるのである。
なぜなら。あの国家形態による社会関係の統治が始まり 全般的に言ってその落ち着きを見出しつつあるとき 家持は 《天(あま)ざかる 鄙(ひな)治めにと 大君の 任(まけ)のまにまに 出でて来》(十七・3957)たのであるが(746年) この春の苑の歌で かれの前史は回転しかのようである。《大君の任にまにまに ますらをの心振り起こし あしひきの山坂越えて 天ざかる鄙に下り来》(十七・3962)たのであるが いまこの道が 赤く生き生きと色採られたかのようである。
なぜなら。――

巻十九の巻頭歌 三月一日作の《春の苑・・・》(4139)に始まり その年の四月にかけて 多くの秀歌を含みつつ家持生涯の多作期に入るのであるが その因は

都から妻(大伴坂上大嬢)を迎えた喜びの春
犬養孝万葉の旅 上 改訂新版 (平凡社ライブラリー)

によるところが大であろう。
もちろん 前年七月聖武天皇退位後 ほとんど必要に迫られて歌詠しかしなかった家持が 

三月三日の宴遊を眼前にひかえて ようやく家持の歌心が動きはじめた
北山茂夫大伴家持 (1971年)

ことによるであろうことも 小野寛のいう

越中時代は二月から五月までの四か月に約八十%が作られている
(小野寛:大伴家持研究 (1980年) (笠間叢書〈145〉)

家持の心の動きも苦慮しなければならないが 一日二日の歌にみる心のゆとりは犬養の言を措いて考えられない。
(小野寛:家持の春苑桃李の歌 《別冊國文学 ??12 万葉集必携2》)

であると考えられているが ことは 妻を迎えた華やかさにのみ限定されないであろうから。それだけに限られるなら 二首目の《庭尓落 波太礼〔能未〕》を詠まなかったであろうから。
なぜなら ことは 本質的に 後史の回転があったとしなければならない。《必要に迫られての歌詠》という必然の王国から 解き放たれたのである。妻を迎えたことが 関係していることであろうが それに還元されざる歴史を想定してみなければならない。《桃の花の下のをとめ》は この際 どうでもよいのである。(もちろん その人を無視することではない)。しかし 《庭尓落 波太礼能未 遺在可母》と 骨太に 前史の世界を捉えたがゆえに 《をとめ》はどうでもよいのである。真っ赤な道に をとめも入って来るであろう。そういう世界(回転史)なのである。
これはすでに 交換経済社会の歴史の中で その第2段階の国家の時代の終焉を 家持は見たかのようである。そういう われわれにとっては現在の 点検過程に属している。と言うのは いささか我田引水の議論であるだろうか。
《波太礼》が何であるか よくわからない。《礼》が 国家 その律法(律令)を表わしているのかも知れない。逆に むしろ家持の当時としては 国家にかんして その律令制の――そのような交換価値体系の統治の――面を払拭するなら 国家的社会はいよいよ隆盛に向かうであろうと踏んでいたのかも知れない。それは かまわない。そういう後史への回転=《出立》が考えられないではない。つまり そのときにも 家持なる主観の回転と旅立ちが 基軸であるから 国家制度のもとの社会が隆盛に向かうと言うのであって 国家がむやみに膨張すると捉えたのではないだろう。それは だから 官吏としてのスサノヲの系譜を物語ると見てさしつかえないと思う。
もう少し かれの歌を読んでみよう。
同じ三月一日に

     翻(と)び翔ける鴫(しぎ)を見て作る歌一首
春まけて物悲しきに さ夜更けて羽振き鳴く鴫誰(た)が田にか住む
春儲而 物悲尓 三更而 羽振鳴志藝 誰田尓加須牟
(十九・4141)

《春になってものがなしいのに》と言うのは 《志藝》の《羽振き鳴き》《翻(と)び翔ける》ことを 抑えようとしてだろうか。それとも 自己の内にそのような翻翔が起ころうとしていることに対して 喜び迎えつつも快く抑えて言ったのであろうか。しかし 前史の世界の《翻》訳が成ったのである。春を待ち受けて(儲)いたというのである。
この《鴫》が 《誰が田にか住む》とうたうのは 翌三月二日のうた

春の田に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路(おほち)思ほゆ
(十九・4142)

つまり これが《春の日に芽のふくらんだ柳を手に持って 見ると 〔越中国府にいるわが身にはしみじみと〕奈良の都の大路が思い出される》(萬葉集(4) (新日本古典文学大系)の大意訳)というのではなく このいまわたしの心に芽吹いた《志藝》が 都にいる人びとの《誰が田に住んでいるだろうか》と思いやったのである。このわたしのように後史に立った同志は都にいるだろうかというのである。
これは ここでは 時にあの疑いに連れ去られて 後史の道が弱いことを物語っている。そのような迷いが生じていることも見ておかねばならないであろう。
これは 単純に言って 家持の 妻(複数であった)に対する関係過程に起因するものと思われる。じっさい このことに関連して 家持じしんが 次のように自分の文章と歌の拙いことに触れている。

稚き時に遊芸の庭に渉らざりしことを以て 横翰の藻 自らに彫虫に乏し。幼き年に山柿(柿本人麻呂か?)の門に逕らずして 裁歌の趣 詞を聚林に失ふ。
天平十九(747)年三月三日 越中国守館で病床から家持が大伴池主に送った書翰)

つづく歌にこのことの現われているのを見る。つまり

物部(もののふ)の八十(やそ)少女(をとめ)らが汲みまがふ寺井の上の堅香子(かたがこ)の花
(十九・4143)

とうたって 後史の愛の堅固な力を――《堅香子(かたくり)の花》を――見ているが

燕来る時になりぬと雁(かり)がねは本郷(くに)思ひつつ雲隠り鳴く
(十九・4144)

と続けて つまり 燕がやって来て春が過ぎると雁は帰って往くが その前史が《雲隠り》ゆくのは 《本郷(くに)思都追(おもひつつ)》だとうたわなければならなかった。前史は必ずしも《雲隠り》ゆくのではなく また逆に その王国をふたたび《思ひつつ鳴く》というのは どうであろう。この後史と前史とのすき間の疑いは われわれは埋めしめられなければならない。それとも 現代においても 国家は 世界の中でいまも波太礼能として現実であるから 家持のような出発が現実であると言うべきであるだろうか。
ともあれ このような点検が必要であると思う。隠れたところで点検し明るみに出してすすむべきであると考えるのである。


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(つづく→2007-05-14 - caguirofie070514)