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哲学いろいろ

#29

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十章c 旅立ち

天平勝宝二年三月二日 家持は次のように《暁(あかとき)に鳴く雉(きぎし)を聞く歌二首》を詠んだ。

杉の野にさ躍(をど)る雉 いちしろく哭(ね)にしも泣かむ隠妻(こもりづま)かも
椙野尓 左乎騰流雉 灼然 啼尓之毛将哭 己母利豆麻可母
(十九・4148)
あしひきの八峰(やつを)の雉鳴き響(とよ)む朝明(あさけ)の霞見ればかなしも
足引之 八峰之雉 鳴響 朝開之霞 見者可奈之母
(十九・4149)

すでに見た4141番の《鴫(志藝)》はここでは 《雉》であります。
《暁》(題詞)《朝明(朝開)》(4149番)と言うのであるから 4139番の《桃の花の紅がにほふ春の花のした照る道》を見ている。その《出立》を思っている。《羽振き鳴く志藝(鴫)》は 《左乎騰流雉》と言いかえられている。ところが 《杉の野で 跳ねて鳴く雉は つい はっきりと人目につくように声立てて泣いてしまう隠り妻のようなものであろうか――暁に鳴くキジの声を聞いて 射てとらえはしまいかとキジの身を思いやり危ぶむ気持ち――》(体系本の頭注・大意訳)と言って いわばここで家持は《隠れキリシタン》のようである。この点を 前述の議論に付け加えておこう。
じっさい次の歌で 《八峰(数多くの峰)》という障害 もしくはこの《八峰》にとっての 文字どおり《足を引》っぱる障害があの道に待ち受けている。だから《隠れキリシタン》のように《朝開け》を迎えすすむのだが たしかにこの《霞》は《見者可奈之母》と。
前述の《雁がねは本郷思ひつつ雲隠り鳴く》(4144番)では 前史と後史とのあわいに 疑いがある。そしてそれは 国家による社会関係の統治の現状とつながっていると見た。このことは 上の《朝開之霞》を考慮するならば 或る種の仕方で日本のくにに独特なあのあいまいの美学を見なければならないのであるかも知れない。《霞》がかかっていたとしても 前史は――《己母利豆麻可母》というほどのその《母(母斑)》は―― しかしながら はっきりと(《灼然=いちしろく》) 後史へ回転せしめられたと 家持はこれで 宣言したのであるかも知れない。この点は 追加して付論すべきであるかと考えられる。臆測の域を出ないけれども 臆測としては 明らかにしておくべきであるのだと。
ついでと言っては何ですが いま一つ次の歌を見ておいて この章を閉じることとしましょう。同じ日に 《遥かに江を泝(さかのぼ)る船人の歌を聞く歌一首》。――だから当然のごとく 新しい道の出立を詠みつづけていると思われる歌。

朝床(あさどこ)に聞けば遥けし 射水川(いみづかは) 朝漕ぎしつつ歌ふ船人
朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唱船人
(十九・4150)

《遥けし》ということと 《しつつ(思都追)》と言って都を思慕していること――その点で家持の心は《ここ》にないとも言える――と これらが 《疑い》または《朝開之霞》としての曖昧の美学を継いでいると考えられる。と同時に その《朝漕ぎ》を《朝己藝》と言って 《いちしろく 羽振き鳴くおのれの志藝》を 自己の知恵の同一にとどまってのように 思っている。これらの構造的な・また過程的な 愛をかれは歌い出した。これらの愛 の動態 の歴史はおそらく 欺かれないと言ってのように スサノヲの歴史を相続して継ぐものである。
このような歴史の生起が ここで歌われ これは 家持における・ということは 国家の時代の 原理的に見ての 終焉に際しての われわれにおける旅立ちを示唆しているように思われる。このような歴史の点検でありうると考えられた。
家持の歌は 万葉集にべらぼうに多いが 基調としては このような視点から読まれ論じられるべきではないだろうか。もう一例は 次につづく長歌一首(併せて短歌一首)に見られる・時に屈折した構造を持つようなしかし同じ基調である。前半で 疑いによる心の揺れを示し――ということは 後史に立つときわれわれも 空しく不安にされないわけではないことを物語る―― 後半で 《鴫(志藝)》と《雉》とは 家持の心の中で《鷹(多可)》となった。

あしひきの〔安志比奇乃〕 山坂越えて
ゆき更(かは)る 年の緒 長く
しなざかる 越(こし=富山)にし住めば
大君の 敷きます国は
都をも ここも同(おや)じと
心には 思ふものから
語り放(さ)け 見放(さ)くる人眼(ひとめ)
乏(とも)しみと 思(おもひ)し繁し。
そこゆゑに 情(こころ)和(な)ぐやと
秋づけば 萩咲きにほふ
石瀬野(いはせの)に 馬だき行きて
遠近(をちこち)に 鳥踏み立て
白塗りの 小鈴もゆらに
合はせ遣り 振り放け見つつ
いきどほる 心の中(うち)を
思ひ伸べ うれしびながら
枕づく 妻屋のうちに
鳥座(とくら)結(ゆ)ひ 据ゑてぞわが飼ふ
  真白斑(ましらふ)の鷹〔真白部乃多可〕
(十九・4154)
矢形尾(やがたを)の真白の鷹を屋戸に据ゑかき撫で見つつ 飼はなくし好(よ)しも
(十九・4155)

一点だけ吟味するなら 《あしひき》を もはや《安志比奇》と託した。外なる《足引》(4149番)から これも内に向き変わったのである。鴫や雉が 鷹となった。後史に立った。・・・
外なる人の模範が 内なる人の秘蹟と 一体となったことを物語ると論じつつ われわれは進むべきであろう。
(つづく→2007-05-15 - caguirofie070515)