勤勉資本主義とガリ勉資本主義
長い引用から入ります。
▲ (江上波夫:遊牧民と農耕民とについて) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
牧畜・騎馬民族の特徴は 自分たち人間は労働するものではないという考え方です。働くのは牛馬や農耕民の仕事でね。自分たちはその上に立って支配する。軍事を司り 学問し 政治をする。
牛馬と言えば もともと彼らはたいへんな発見をしている。羊 山羊 牛と馬 これだけ飼って世界を横行することを考えた。何もない所へ行っても これだけで全部間に合う。食べる方は乳と乳製品で十分 毛と毛皮で 服も夜具もテントもできる。それ自身が生きた缶詰です。
鞭ひとつで草のある所 水のある所へかついでいってくれ かってに子供も産んでくれる。あとは寝ていればみんな事足りる。人間よりよっぽど頭がいいですよ。
* もう少し引用してみます。近代以降の経済社会にまで触れるよう
になります。
彼らはやがて牛馬の代わりに機械を働かせるようになる。あるいは植民地の人々を働かせる。それが帝国主義となり 産業革命となり いわゆる近代文明を生んだ。いっぽう農耕民族は人間は労働するものだという考え方なんですね。ここのところが牧畜・騎馬民族との大きな違いです。
農耕民族からみれば 牧畜・騎馬民族には文化がない 彼らは野蛮人だというのですが 文化の型が違うのです。牧畜民は個人主義で 自由で 民主的です。文化は農耕民族の創出したものを摂取すればよい と考えている。実際にいろいろな文明を融合して普遍性のある世界的な文明をつくってきたのは農耕民族ぢゃなく 牧畜民なんです。ヨーロッパでは 地中海世界ではなくてゲルマンが牧民なのです。そういう意味で 世界史における牧民の役割を明らかにするのが私のテーマになっちゃったんです。
(江上波夫(著者代表):天城シンポジウム 日本人とは何か――民族の起源を求めて―― 1980 pp.16−17)
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どうなんでしょう? 遊牧民と農耕民とを比べることは この引用のみとしますが 勤勉とガリ勉とを区分して捉えてみてはどうでしょう?
たとえば 人生を充実して生きたいと言う人 互いに自由に・しかも助け合いながら生きていきたいと言う人 こういう人は 時間を大切にします。おそらく何事にもしかるべき程度にふつうに務めを果たします。
このとき さらにそこから――つまり 勤勉のくせやならわしから―― 《時は金なり》という方針をみちびくかどうかで分かれるのではないでしょうか? 数量化して 時間を捉える。ですから そこまで行かない場合には 時間は 相手との互いに自由な――自由に批判し合えるほどに自由な――出会いであり共有する世界となります。
でも 時間ないし人生を貨幣価値に置きなおしてみるというガリ勉の精神の場合であっても 品物はすでに商品となっていますがその商品にかんして 原理原則としてきわめて民主的な等価交換にしたがっているということも見ておく必要があると思います。
言いかえると問題は この経済的な――経済的に量的な価値において捉えるという互いに共通の認識に立てるような――等価交換の原則のほかに・言わばその上から いわゆる政治的な・社会力学的な力がはたらくことにあるのではないでしょうか?
★ なんで新自由主義のようなのが流行ったんでしょうか?
☆ 科学つまり特に自然科学は 自由に展開します。あたかも自己運動のごとくに――倫理からのブレーキがかかるまでは―― 一直線に発展します。それと同じように ガリ勉資本主義も 特にその民主主義的な等価交換の原則に立ったというときには そこから一面においてでしょうがもはやその《計算》における限りでとしてもやはり一直線に走り続けるのでしょうね。
この悪貨にふつうの勤勉資本主義なる良貨が駆逐されないで済むようにするのは どうしたらいいでしょう?