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哲学いろいろ

精神は むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない。

 それでは 精神はどのように自己を問い求め見出すのであろうか という不思議な問いがある。
 精神は問い求めるために何処に向かうのであろうか。あるいは 見出す( invenire )ために何処に到来する( venire )のであろうか。
 精神の中で精神自身ほど近いものがあるであろうか。しかし 精神は愛をもって思惟する感覚的なものすなわち 物体的なものに愛によって慣らされているゆえに それらの似像なくしては自分自身のうちに存在し得ないのである。その点で精神の恥ずべき誤謬が発生するのである。
 精神は知覚された事物の似像を 自己だけを見つめるために自己から見分け得ないからである。それらの似像は愛の膠(にかわ)によって不思議な仕方で精神にへばりついている。これが精神の不純である。というのは 精神は自己のみを思惟しようと努めるとき それなくしては自己を思惟し得ないものを自己であると思いなすからである。
したがって 精神は自己自身を認識するように命じられるとき あたかも自己から取り去られたもののように 自己を問い求めてはならない。むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない。
精神は明らかに外側に存在している感覚的なものより内在的であるのみならず 魂の或る部分において存在するあの感覚的なものの似像よりも内的である。
 動物も 精神の特性である知解力を欠いているとはいえ これらの似像を所有している。そこで 精神はより内的であるから その愛の情念を感覚的なものへ向けるとき 自己自身から或る仕方で外に出る。感覚的なものは多くの意志の志向の跡として精神の中に残る。この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻印されて たとい その事物が不在のときでも その似像は思惟する人々に現在するのである。
 だから精神は自己自身を認識せよ 不在なもののように問い求めないで 他のものの上にさ迷っていた意志の注視を自己自身へ固着し 自己自身を思惟せよ。かくて 精神は自己をかつて愛さず 知らなかったことがないのを見るであろう。しかし 精神は他のものを自己と共に愛することによってそれを自己と混同し 或る仕方でそれと癒着したのである。かくて 精神は異なるものを一つのもののように抱懐することによって 異なるものを一つのものであると思いなしたのである。
そこで精神は 不在なものとして自己を認めようと問い求めないで 自己を現在するものとして認めるように心を配れ。また あたかも まだ知らないように自己を認識しないで 知っている他のものから自己を区別して知らなければならない。
 (三位一体論 10・8−9)