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もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416
第八章b 国家の問題
これまでのまとめ
原史 自給自足生活 / 自然採集社会
歴史 交換経済 / 農耕・牧畜・産業社会
(1)無自覚的な自給自足主体からの解放〔かつその呪術生活の残存〕
――国家の形成へ――
(2)交換主体関係に国家的な共同自治
――国家の確立・進展(消長)
(3)国家的な共同自治の中で 交換のかつ自給自足の主体へ
――国家形態の再編・移行――
われわれは現在 (3)の段階に位置しており
(2)の発足時に スサノヲ〔とアマテラスおよびもろもろの人びと〕の歴史によって 歴史が始まったのであり この両者で歴史は はじめから今までをつらぬいて推移しており イザナキ・イザナミの社会を原史とし (1)から(2)への移行にあたって聖徳太子はすでに スサノヲの系譜をのぞみ見てのように 好感経済社会を客体と見る視点をつちかっており (2)の段階の半ばあたりで スサノヲの生活原理を おしえとして説くキリスト教宣教師がやって来て 人びとはかれたと議論したのであり 現代では 新しい(3)の段階への移行にあたって 世界史的に 国家論者と国家反対論(それは 時に別の国家論となりえた)との対立が存在し きざに言うと われわれは これらを通じて愛の王国の歴史的な進展を見守っている。
見守っていると言ったのは たしかにわれわれも 国家の問題を扱わなければならないが この非常なるつまり或る意味で非日常性の領域をつねには 思惟していないといったほどの意味である。逆に言うと いままさに(3)の段階へ入ろうとしているとならば この非日常性が日常生活の領域と化しているとも考えられないでもないが したがって上と順立の関係から言うと 生活原理が国家の問題へ挙げて論じられるのではなく 国家の領域が日常の生活に降ろされて来て(アマアガリしたのであるが アマクダリして) これを 愛の王国の歴史的な進展の問題として 論議せられ じっさいに 実践にも移されて行くといったほどの意味である。
精神は 精神の王国において 革命を図ろうとするのではなく 愛の王国によって 滞留しており この滞留つまり生活原理が 精神の王国をも用いてすすむのであるから。また 滞留の過程が前史から後史への革命を 通過しており また その啓発へ促されている。
ここで これまでの議論にいくらかの補注をつけておかなければならない。
(あ)自然採集社会において 農耕による生産のような知性による加工がなかったわけでないこと。
かれらは 木の実を採ってこれをそのまま口へ運んだわけではなく 水で洗ってアク抜きをしたり火に通して すでに料理の作業がここで開始されている。また 余剰(備えとしての)をもたなかったわけではない。さらに このつてで――つまり呪術宗教としてであれ―― 自然の産物を乱獲したりしたわけでもなかろう。それなりに自給自足の主体であり その関係であった。
生活が客体化されたとならば 自然の力に対して これを受容しなければならないところに 自然に対して客体であった。これが呪術となったところで あるいは もとからの呪術生活がそうだと認識されるようになったところで つまり そのように余剰を持ちうるようになったところで 知性が開花した。と同時に これが 疑いとなっても現われた。
知性は 余剰の交換を悟ったであろう。疑いは 交換しあう余剰に 価値なるものを付与して捉えたであろう。知性は これに対して 等価の交換を表象し主張した。疑いは これを排斥したのではなく この等価値性を疑った。逆に言うと 知性は 等価性の固定を信じることなく これを動態つまり過程的な等価(互いの自給自足主体性)と見た。疑いなる知性は 等価の動態性をも固定化し これによって自己の自給自足主体性を保持しようとした。つまり 余剰の蓄積・増殖に励み これの貸し手なる位置によって 自己の社会的な安定をはかり保とうとする。
この貸し借り関係が 交換経済を日常的なものとした。主体たる人間にも 余剰なる概念が生み出された。人間存在に対しても 余剰ではないかという目で見るという事態が生まれたのである。交換価値が主体となって 人間を客体視させて行く。
(い)交換価値の社会的な体系が 人間社会の常態だと見なされる。交換関係の中で生きるのではなく 交換関係を統治する者とそうでない者とに分かれて行く。かくて知性の勤勉と 知性の疑い・疑いなる知性の勤勉と。後者の勤勉は やがて ガリ勉となる。国家族の発生。
(う)はじめは国家族から逃れた知性も 交換関係の絶対性とも言うべき自覚した自給自足主体性によって 国家族と接触し 時にこれに譲歩しなければならなかった。おおむね 地球全体を 国家形態がその人間社会を覆った。
(え)これと前後して 人間の生活原理が 議論され これ(スサノヲイスムなる生活方法)の再発見によって 歴史が開始され 交換経済社会との時に敵対関係をとおしても歴史が推移して来た。
(お)その時々の現在がむしろつねに歴史の総決算と言われうるほどに 現代は この歴史の総点検の時代である。いま述べている問題のむしろすべてが 説かれ議論されて来たから。わたしたちは わたしたちなりに 生活原理の方法によって それらを総括しつつ論じている。この視点がどこから来たか 承知していないわけではないが 人間の歴史の中から来た つまりそう言うほどに 〔つねにその時点の〕前史が 或る後史へ回転せしめられて ここに立ち われわれは歴史する。
(か)抽象的にいま言えることは 国家族と国家人(国民)とは ちがう。交換経済主体だえることと交換経済主義とはちがう。
(き)この日本人の歴史は 少なくとも(3)の段階で 世界史とつながっている。
等々。
(つづく→2007-05-08 - caguirofie070508)