caguirofie

哲学いろいろ

#21

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第八章a 国家の問題

人間の生については 前史と後史との歴史過程を――それは 革命ともいうべき回転の過程を――想定しました。
人類の歴史については 社会的に 狩猟・採集・漁労の経済による自給自足生活から 農耕の開始・発展とともに交換経済への移行を一つの大きな基軸としました。日本に即しては 縄文時代から弥生人の社会への突入です。
自給自足の生活においては 社会(つまり 男と女の関係ないし人間と人間との関係)じたいも 自給自足であったと言うかのように そこに愛が見られても――愛の動態的な過程が見られても―― ただちに はじめに想定した人の前史から後史への回転といった歴史は たといあっても 明確に把握されがたかった。ともあれ自給自足の主体とその関係であることに 自給自足していた。呪術世界の中ででも――要するに 或る知性が芽生えていても いまだなお大きくは共同の幻想を保ってでも―― 主体とその関係であったことより 言いかえると それを信じて疑わなかった分だけ その限りで 自己が自己であった。逆にこれが 無自覚的であった分だけ のちに疑いが生じざるを得ず――または 真正の知性が生じざるを得ず―― 社会じたいとして解体せざるを得ない。

  • のちの農耕生活が その生産力を増大させて 他者と交換しうるまでの余剰を獲得するようになって初めて 縄文呪術世界が解体したと言うのは あたっていない。なぜなら 狩猟・採集・漁労というごく自然的な獲得経済に代わって しかもその呪術社会じたいの中から 自然の経験法則を生かして生産を行なうという農耕ないし牧畜行為が 同じ人間の中から一個の知性によって 発見・発明されるに至ったのだから。つまりこの知性の獲得が――すでに獲得していたことの再発見 その知性人への再到来じたいが―― 縄文呪術社会を発展的に解体しようと動いたのだから。

ここで 交換価値による生活関係が生じた。この知性に立った人びとの中でも しかしながら 縄文社会の発展的解体を 歴史的にごく自然に 言いかえると 人間の自然本性としての知性をも人間が用いるという自然的に とらえ この新たな段階に入っていった人びとと そうではなく 旧い経済生活の解体を 疑い――それは あちこちに残っているではないかと疑い―― この疑いそのものによって いまだ――自分自身は 呪術から解放されながらも――旧い呪術自然的な生活を愛着した人びとがいる。
この後者の人びとは 近代市民ないし現代市民のキャピタリスト つまり言いかえると 人は交換価値の増殖・蓄積を推し進めて これら価値関係の生活の中で 交換的知性の王者にならなければ 自分は自分でなくなると考えるような人びとにまで その歴史的系譜がつらなっている。
かれらは 縄文人から弥生人への移行を まったくの非連続の過程として捉え じっさいには 旧い時代にも見られた自給自足の主体であるという生活原理を自分の力でたしかに追求し しかもこのためには 呪術関係・幻想的な自給自足関係ではなく これを人びと相互の支配・被支配の関係に代えてでなければ 生活してゆけないと考えたのである。そこには 疑いがあった。
なぜなら 同じ縄文生活をしていた人びとの中から――それが外からの触発を受けたものであれ(事実 農耕は外から入って来たというのが 一般的な見方であるが)―― 農耕生活という新しい知性がまづ生まれたのであり この新しい生活原理の誕生と それによって同じその新しい生活の中で 貸し借りの関係 ひいては支配・被支配の関係が生じたこととは 別であるから。疑いはむしろはじめに 克服されていたのである。縄文人の基調でも 無自覚的に克服されていたのである。無自覚的にというそのことによって まだ解放されていなかった。
こうして新しい段階に入った。そしてその交換経済社会のとっぱじめに スサノヲのミコトの物語 つまり前史が後史へ回転するという歴史が捉えられ 最初に《歴史》が生起した。
この弥生人の歴史から始まる交換経済社会は これまでの経緯において 二つもしくは三つの段階に分かれる。はじめは 交換価値の貸し借り関係をつうじたただの支配関係の時代 次にこれが 一個の社会形態のまとまりを 一個の自給自足主体とみなそうとしてのように 国家という仮象的な共同体にまで高められ そのもとに推移する段階 そして三つ目に この国家形態のもとでの交換経済主体であることが なお発展的に解体してゆく現代という時代 これらである。
前章で見た聖徳太子は 第二段階すなわち国家形態の時代への生成期に位置している。そこでは 一方で この新しい交換関係社会〔における人間の生〕は ただ客体的な現象にしか過ぎず 人はあたかもこれを通過して市民の祖国へ巡礼してゆくというかのような旅人であると認識されると同時に 他方で 交換関係の一個の地域的なまとまりとしてのその総体――これが国家として表象されていった―― この総体は むしろ人が住むべき《家》であって これに逆らうことは 《あはれ》であるという別の認識が持たれたのである。ここにすでに 労働の二重性が見られるであろう。そしてこれが 国家の問題である。
もちろんその基調(土台)は すでに農耕社会から工業社会へも移行しているとは言え またこの移行を促したところの 生産の力の問題でもある。
ただ 必ずしもここでいわゆる経済学的に生産力の視点から とらえようとしないのは 上に触れた の農業から種々の産業への発展が ちょうど工業・産業を表わす言葉が 勤勉・勤労を表わす語と同じであると見てのように またそれは要するに あの縄文人にも獲得されていた人間の知性の問題でもあると言ってのように これら知性とか勤勉とかは 人間の生活の中でその生活原理としてすでに このはじめの農耕労働の中にも十分にはたらいていたと見なければならないから。
言いかえると 生産とその力は土台であるが それはなお一個の客体であるにしかすぎず その生産の主体つまりわたしが存在しているのであり もちろんこの主体の知性がすべてを解決すると言うのではないが 生産ないし経済現象は この主体とその知性・勤勉とあいまって 現実の土台であると言うにしか過ぎない。ということは 知性をも人が用いるというように 生産にかんしても 何をどのように生産するかは なお主体たる人間にその裁可権が任せられている余地がある。
これを殊更言うのは ほかならぬ国家の形成の問題も この主体たる人間の手によって作られたという側面を排除しておらず その限りで 圧倒的なと見える経済の自然史的な過程にすべて人が 拉っし去られてゆく法はないと見なければならない。言いかえると 弥生人の後裔たるアマテラスが 縄文人の存続に疑いをかけて その交換経済の中で 国家といったこの項関係の共同自治の装置を作らねばならなかったのは むしろこの主体とその知性の問題にかかわっているからであり そうしてすべては 生産の力のあたかも自然史的発展とこれに対処する人間の――疑いから発するものであれ――知性との総合的な関係総体として じつに 前史たる客体たる交換価値関係による生活の中で 愛をもって生きこの愛に見放され前史の圧倒に死ぬ 死ぬことによって後史へ回転してのようによみがえるという人間の愛の問題に還元されてさえある。ゆえである。


また愛こそは その前史のかたちを含めるなら 生活の欲求であり(これがむしろ農耕生活という知性を生んだ) 新しい農耕生活における交換経済関係を 支配層となって生きる欲求でもあり この支配欲が 交換関係の総体を国家という家としてその中で 共同自治(統治と服従)しようという一編の愛のかたちなのであり この国家の統治者としての愛が 産業・工業・近代市民の豊かな社会またそれに対する観想を持つべき知性と生産の力を形成したと言うべきだからである。


この愛が歴史である。生産・知性はその土台である。その共同体の組織・秩序は その土俵である。
したがって 愛の王国の歴史として 縄文社会から飛び出してきた弥生人の社会 そしてさらにこれが 国家形成へと動く歴史 あるいは この国家の段階をさらに再編してゆこうとする新しい段階を 覆うと見なければならない。このゆえに 生産の力の歴史としての経済学的な理論作業によってはわれわれは満足しない。また じっさい 満足していないがゆえに 満足していなくともその自然史的な過程に突き動かされ この前史の母斑をなお身につけつつもこれに死なしめられてのように そこに一貫した愛の王国の歴史を見させられた。
この歴史の進展のぐあいを 過去にさかのぼって点検し明るみに出して 議論しあわなければならない。と考えられた。このことは わたしたちが勝手に言い出したのではなく 疎外論・物象化論・国家の移行論等を説く人びとがすでに存在するのであり われわれはかれらの議論にこたえてあげなければならない。なぜなら われわれは 国家の保守の議論 キャピタリスム交換経済の擁護の議論にもついて行けないからである。しかしわれわれも 国家主義者や国家反対論者と同じように この交換関係社会の中に位置している。
これは 国家の問題である。つまり国家が確立されているがゆえに 自給自足社会の歴史をも連続させてのように正当にも 人びとのあいだで自由な議論が生まれることになったとも言いうるし いや この国家は今となっては必要でなかったと見うるほどに はじめの国家形成へと動いたわれわれの過去の愛の問題でもあるという意味で 国家の問題である。生産が生活の土台であり 生産の歴史の経済学的な理論が基礎であるというほどに その人間の知性を形成した愛の問題として国家の問題が むしろ焦点となると見たほうがよい。


   ***


余剰の貸し借り関係が生じた結果 そしてこれが 或る種の仕方で恒常的となった結果 貸し手は借り手(その呪術的生活の残存)を疑ったのである。疑いつづけた。借り手は 最初の借りをすでに疑われたので この疑いを晴らそうとした。時に 最後まで自分の力で晴らそうとした。時にそのために むしろ疑いの克服についての自分の無力を悟ることへはみちびかれずに しかもこの克服のありようを想像しこの想像において 貸し手のアマテラスに対処した。
かれらは ちょうど疑いの中からよみがえったスサノヲのように しかしこの歴史を想像において保持し かつ貸し借り関係の圧倒に無力を悟り その交換関係の中で 泣きとおしたり破廉恥なまでの愚行に走った。
アマテラスは 貸し借り関係における貸し手の側としての支配者の位置を愛し保守しようとしてのように この泣きいさちり(時に 泣いてごまかすこと)や非行を 統治しなければならかいと考えた。ここから 国家の想定が始まった。
交換経済関係が 自給自足生活を脱け出してのように そのままで推移するのではなく 交換関係社会を一個の客体として 交換の貸し手・借り手関係の中の単なる主体としてではなく 貸借関係の総体じたいを統治する者とそうでない者とに分かれようとしたのである。国家とは この社会関係である。そのために 行政と法と そしてその行政主体じしん 呪術から解放されつつ 呪術生活原理を統治する宗教司祭が 必要に応じて 編み出されて行った。そしてこれらは愛であり いまではすべて 前史の愛であると自明のことがらとして認識されるに至ったのである。これが 国家の問題にほかならない。
この国家にあって 家長らアマテラスは その支配欲なる愛を愛し 土台としては 自由な交換経済を愛着する。ここで自覚的な自給自足主体であろうと欲する者は じっさいには 国家の土俵を前提として(それは 一面では 正当である) しかし 生産(自給自足経済から交換経済へ移行した生産)の歴史を 《科学》的に明らかにしようとする。明らかになれば 愛が 自分たちにも統治者にも生起してくると信じている。中でソシアリスムと呼ばれる考え方は 自分たちのそのような生活原理にしたがって 自分たち自身のもう一つの国家を築くまでに至った。これが 国家の問題であり 愛の王国の歴史的な進展の問題である。
これについては すでに最高の・最後の段階にまで 交換経済ないし国家の問題は達していると言わざるを得ない。それは こうして 弥生人の歴史の点検の問題として 現代の問題であるだろう。つまり こう言うならば すでに愛の王国の歴史として すべてつながって推移している。すでにここで われわれは 後史に入っているとも言える。この史観じたいにおいて 只で 前史が後史へ回転せしめられているのだと考えられる。ならば 国家の問題は じつにきみ自身の問題である。
たしかに《相手の気持ちが読めないうちは ダメ》なのであり 《たった一つの論理を知るだけで世間の裏も表も見える》のであるが これを想像において精神の王国へ移行してというほどに きみという主体がむしろ客体となり幽霊となってのように(幽霊に足はない) その想像倫理において 《マジメなだけでは うだつが上がらない》ということになっているようだ。かく言うわたしは 最後に闘牛場に牽き出される者のように うだつが上がらないままで――なぜなら 幽霊からのきみたちの解放を俟った―― この理論を 提出する。しかし そのわたしに《 BIG tomorrow 》が待っていると言おうとするのではなく すでに《大いなる今日》が実現していると言う。幽霊であるなら そうは言えないであろう。しかしわたしも たしかに死なしめられた。この秘密を現実と思わないよりは 思ったほうが現実的である。この愛は わたしのわたしへの強制というかたちですら 推移してきた。
わたしたちは このような議論を無限に為してゆくであろう。学者は これを点検し わたしのあやまちを修正しつつ その基本的な方向を裏付けしていってくれるであろう。これは 歴史の暮れ方の問題であり 歴史の明け方の問題でもある。だれも自分を欺いてはならない。


現代が弥生時代の以降 交換経済社会における国家形態再編の時代として第三段階だとすると――または 国家はいましばらくは続くものとしても 第二段階の現代的局面だとすると―― これからの議論は 何らかのかたちですべて 国家の問題とからんでいることになる。そしてこの点 とりたてて言わなくとも そうであるという前提を持つことになります。
(つづく→2007-05-07 - caguirofie070507)